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    <title>禁苑の黎明−Twilight in the forbidden city</title>
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    <description>岩波書店から再版された紫禁城の黄昏(抄約・不完全版)の完訳である&lt;br /&gt;
「禁苑の黎明」 原題：&amp;quot;TWILIGHT IN THE FORBIDDEN CITY&amp;quot;&lt;br /&gt;
by Reginald F. Johnston を ＷＥＢ上に復刻していきます。</description>
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    <title>結論　（三）</title>
    <description>　龍の帰還

　大体の内容は最近、中部支那を旅行中のことを書いてその地の有力者の間に見た帝への好意同情の態度を知らせて来たものである。それ故私はこの手紙を皇帝にお見せしたがその後皇帝が書類の間にこの手紙を入れておかれたのが偶然現れたに過ぎないのである。この...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の帰還</font><br />
<br />
　大体の内容は最近、中部支那を旅行中のことを書いてその地の有力者の間に見た帝への好意同情の態度を知らせて来たものである。それ故私はこの手紙を皇帝にお見せしたがその後皇帝が書類の間にこの手紙を入れておかれたのが偶然現れたに過ぎないのである。この内容には皇帝、清朝、或は私自身が何等政治的陰謀に関係しているというような事実はふくまれていなかった。<br />
<br />
　しかし全君主々義者の剿滅（そうめつ）を期した反清朝同盟は、この手紙を見つけて大いに喜び、ほかのと一緒に複写して全国に回した。これを以て「溥儀」の師たる英人が皇位回復の陰謀に加わっている有力な証拠だと見なしたのである。又皇帝の反対党はさらに歩を進め、私がこれらの邪悪な計画に従事して、外交界に盛に害毒を流していると公表した。<br />
<br />
　私に向けられた代表的な非難は&#38313;報（みんぽう）という支那新聞の1925年1月1日付の英文版に現れている。<br />
　<blockquote>「前皇帝の天津到着以来ジョンストン氏は家庭教師の名によって、支那に於けるヨーロッパ諸帝国の公使、領事の総てに提議を出している。即ち多くの権益提供を条件として、帝政回復に支持を得んと必死になっている。彼の陰謀の結果英国の代理公使は彼の影響下に加わった。5月30日の上海暴動以来、ジョンストン氏は英国の代理公使と一緒になってこの帝位回復計画に重大な役割を演じている。」</blockquote><br />
　尚1、2週間遅れて反清朝同盟から英国の大臣に当て、私を支那から放逐せよとの公開状が北京で発布された。同盟はこの要求を4億の支那人民の要望であると称した。また、総ての支那に於ける君主々義は死刑にさるべく、私の罪も亦許さるべきでなく峻烈な罰を必要とするといっている。この私の攻撃は低級なものだし、問題にされなくてもよいが、私は段祺瑞の政府から次の様な内意をうけた。即ち「反満州煽動者の行為を度を過さぬ様にさせるに都合がいゝから、公文で右に返事をしてくれゝば、政府としては有難い」というのであった。<br />
<br />
　私はそれ故北京天津タイムスや他の外国新聞に8月12日付をもって書き、尚支那語で諸種の有力なる支那の雑誌にも書いた。<br />
<br />
　全文を引用することは無駄であるから、終りに、皇帝に負わされる賎しい攻撃について書いておいたところだけを次にのべる。これは相当興味を引くと思う。<br />
　<blockquote>「皇帝は天津に居られた時ですら、19歳の御身で反対派の苛酷、卑劣なる攻撃に悩された。最初の退位の条件にもとづく権益を奪ってなお足らず、去る11月のクーデターの時に皇帝に課された修正条件すら奪わんとしてあらゆる策が試みられつゝある。絶えず帝政回復の陰謀をめぐらすものとの攻撃が帝に向けられている。例えば本日の一支那紙は皇帝は天津で帝政派の有力者に守られ、天津の多くの外国領事と密接な関係をとり、近頃ある国と通じ、又彼が王位につくことが出来た暁には、支那に於ける種々な権利を許すと約束した、とか、君主制度を目的として或軍閥と同盟したとか、宣伝されている。かゝる乱暴なる断定を事実とみとむべき何らの証拠がないことは言うまでもない」</blockquote><br />
　反清同盟は段祺瑞の政府をして、あらゆる嫌疑のかゝった君主々義者達を捕縛せしめんとした。<br />
<br />
　段祺瑞の政府が没収された皇帝の財産を返上せんと申し出た時ほど反清同盟を憤慨させたことはなかった。<br />
<br />
　かゝる行為をとる同盟代表の１人である杜孝史（とこうし）は声明して、「政府の意図がどこにあるか諒解に苦しむ、もし他の推測をしないなら、これは政府が帝政回復に参画していると見るのほかない」といっている。<br />
<br />
　私は28年間支那にいたが、1926年北清事変賠償金の英国の所得額管理の為1年間ばかり英国に帰る必要があった。1927年の初め威海衛の長官として再び渡支した。そしてこの租借地で、地方官及び長官として永年つとめたが、その4年後以前からの規約であったこの英国租借地返還を英国が遂行した時に私もこの地を離れた。その間に私は皇帝と数回お会いしていた。<br />
<br />
　私は威海衛に行く以前天津で皇帝と一緒に数日を過した。2月14日の皇帝の誕生日が私と一緒に帝政回復の陰謀に当っていると思われていた忠実な老君主々義者との最後の会見になった。<br />
<br />
　皇帝の誕生日の朝康有為氏とその高弟垂（すい）氏が私を訪ねた。そして長い間帝と帝との過去及び将来の事に就て語り合ってから、我々は日本租界の帝の住居である長園（ちょうえん）へ行った。</span>
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    <dc:subject>結論</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-10T15:37:59+09:00</dc:date>
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    <title>結論　（二）</title>
    <description>　龍の帰還

　この支那の傑物は何度も祖国の政界に現れたが彼の奇怪な面貌はいたる所で排斥され、今日支那にはほとんど同志をもっていない。数は少いがこれらの同志にとって馮は今も昔も私心なき英雄であり、愛国者である。しかし一般の人々、否友達にも敵にも彼は虚偽と陰...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の帰還</font><br />
<br />
　この支那の傑物は何度も祖国の政界に現れたが彼の奇怪な面貌はいたる所で排斥され、今日支那にはほとんど同志をもっていない。数は少いがこれらの同志にとって馮は今も昔も私心なき英雄であり、愛国者である。しかし一般の人々、否友達にも敵にも彼は虚偽と陰険で頑固な反逆人として一せいに非難されている。<br />
<br />
　彼は月桂樹とバラの王冠をつけているがそれは土芥（どかい）に汚されたものだ。彼を真の民主々義者と見る者もいよう。又労働大衆の熱烈なる支持者、又は貧者と圧迫された者達への忠実な友と思う者もいよう。が崇拝者以外の者には彼は自らの人民の友、人民の代表をきどる利己的野心と陰惨なる計画をよりたやすく遂行せんが為に敬虔、謙遜、単純、節倹の仮面をかぶっている偽善者に過ぎないのだ。<br />
<br />
　1929年に馮は北部軍戦主義の狡猾なシンボルであり老獪な狼ともいうべき謀反人であると反馮団体に書き立てられているのを見た。<br />
<br />
　彼は十戒を犯したと責められている。その中の数ヶ条を述べて見ると、（一）、外蒙古をロシアに属せしめ、（一）、国民政府へ反逆し、（一）、孫逸仙の葬儀妨害を計って、電信線を切断し、（一）、数十万人の青年の命を失わせ、（一）、私の戦に国家の補助金及び穀物を私消した、（一）、共産党員と連絡つけ、（一）、西北部農村に阿片の強制栽培を命じ、（一）、人民を掠奪した等々の如き条項より成っている。反馮国会では以上の罪条より判断すると如何に彼が狡猾であるかゞわかる。彼の罪は死をもってしても不十分である、といっていた。<br />
<br />
　かつて1920年馮の友達の基督教徒は世間に対して、こんなことをいった。<br />
<br />
　かつて「総ての作物が日照りで枯れそうに見えた時」馮は仏教信者と道教信者を呼んで雨が降る様にと拝ませんとしたが「断られたので驚怖と失望に落ち入った」その時馮が拝んだ処「たちまちにして大雨沛然（はいぜん）としてきた」と。<br />
<br />
　然るに丁度10年の後陝西地方に彼が行った時、偶然同地方に日照が続いたが故に陝西の人々は彼を「日照りの悪魔」といっている。<br />
<br />
　尚同地方の宣教師である英国新聞の通信員は次の様にいった。「不思議な事だ、馮が陝西省の統治をやめたらちょうど日照りもやんだ。即ち1927年に彼がこの地に来てから、3年にも渡って飢饉がつゞいた。彼が下野を通電した時、何年来にもない大雨があったのだ。以来、ずっと雨が降り続いた。」<br />
<br />
　公使館の寓居の4ヶ月間及び天津での滞在の当初の間、皇帝は多くの無遠慮な心なき、卑劣な非難の矢おもてに立たれた。<br />
<br />
　皇帝は捏造された政治的罪悪及び陰謀をたてに非難を受けられ、又若し出来ることなら共和国を転覆させんとしたという覚えのない企みに対しても非難を受けられたのみならず世間の嘲笑と恥辱を堪え忍ばれ、人格を毀損されるのも捨ておいた。皇帝に関するデマは支那人に対すると同様外人間にも影響し、そのデマは国の内外で非常な成功を収めた。<br />
<br />
　これは皇帝が天津に居られた当初の事であるが、外国の新聞記者の間に、皇帝をよぶにヘンリー溥儀という名をもってする風があった。未だかつて皇帝自らもその友達もこれは甚だ無礼なことで、かゝる呼方はしていない。ヘンリー溥儀氏などとはだいそれた呼方であるばかりでなく、儀礼に従えば前帝は、「氏」でなく「前――帝」もしくは単に「帝」と書くのが普通である。又これは優待条件によって大清皇帝が前皇帝とせず皇帝として完全なる帝号を保持する権利を有してい、又これらの条約は決して合法的又は立憲的方法によって廃されていなかったから、明かに無礼な行為と見られる呼方である。<br />
<br />
　反清同盟は絶えず反皇室熱を煽動する目的の存在である。この同盟は1924年11月に強制的に賛成をしいた優待条件の完全な解消と、皇帝自身をふくむすべての君主々義の処罰、断罪を唱道していた。<br />
<br />
　1925年の終りにあたり清朝の敵は、禁苑の奥深く皇帝の寝所から発見されたある通信を公表した。そしてこれを君主体の回復の陰謀の存在した証拠となし、支那政界の数名の名士が参画していると公言した。尤も共和制主義の人々には非常に嫌悪されるのは当然の事であろうが。実際皇帝は支那に多くの親密な友を持って居られる。が公にされた文書の中で皇帝が友と一緒に何か計画されている等という事実は全くないのである。<br />
<br />
　当時問題になった文書の1つは、私が君主々義的陰謀に一役買って出ているとされたために相当のセンセーションを起したものだった。この文書というのは、現在支那の急進団体から反動派と見られている康有為という有名な改革者から、私に来た長い手紙なのである。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>結論</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-09T09:34:05+09:00</dc:date>
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    <title>結論　龍の帰還　（一）</title>
    <description>　龍の帰還

　禁苑の「薄暮」が愈々「夜」となった。その後の暗黒についての詳しい事は私の話の範囲内ではないし、新黎明にいたってはすでに諸家の説くところで明瞭となっている。私は単に永い「夜」の事件の簡単な総括だけを述べて見ようと思う。

　皇帝は1924年11月29日か...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;"><font color="red">　龍の帰還</font><br />
<br />
　禁苑の「薄暮」が愈々「夜」となった。その後の暗黒についての詳しい事は私の話の範囲内ではないし、新黎明にいたってはすでに諸家の説くところで明瞭となっている。私は単に永い「夜」の事件の簡単な総括だけを述べて見ようと思う。<br />
<br />
　皇帝は1924年11月29日から1925年の2月23日迄約4ヶ月を日本の公使館の賓客として暮された。瀕死の孫逸仙が、北京に到着したときにもそこにいられた。<br />
<br />
　その間、皇帝は殆ど公使館区域よりお離れになる事はなかった。外国外交官の訪問答礼のために2、3回御出かけなされ、時たま英国公使館内の私の宿舎に来られたり、よく支那の勢力外にある公使館区域の南境の城壁を御一緒に散歩したりした。この城壁から皇帝は天壇を繞（めぐ）らしてある木のよく茂った公園を初めて見られた。世が世ならば天子として人民の父としてそこに司祭された筈の大理石の天壇は見えなかった。<br />
<br />
　ある時は禁苑の輝ける黄色の屋根を見られた。この屋根は畏れ多い事ながらある点では皇帝の幼時からの家であり又獄屋であったのだ。あるときこの城壁を散歩中我々の方に歩いて来る黒衣の人を見たので、この事を皇帝にお知らせしてよく御覧になる様におすゝめした。この黒衣の人こそソビエト大使のカラハン氏であったのだ。<br />
<br />
　さて次に天津開港場の日本租界のたいくつな滞在が1925年2月から1931年11月迄7年も続いた。<br />
<br />
　反清同盟と自称する団体により、日本が支那に対する帝国主義的計略から皇帝を政治的道具に用いんがため日本に導き、宮殿を与えんとしているといった様なデマが支那新聞を盛んに賑した。実際日本政府が1925年から1931年迄の間に皇帝が日本で歓迎されるだろう等と少しでもほのめかしたなら、皇帝は喜んで天津の無味乾燥な生活を止めて自由開豁（かいかつ）なる生活をなさる為に美しい京都付近か富士山を窓ごしに見える様な処に行かれたであろう。日本は決してこんなことをほのめかさなかったのである。返って私を通じて皇帝が日本又は満州の江東にある日本租借地に行かれるようなことがあると、日本政府は「甚だ困惑する」ということを伝えていた。<br />
<br />
　1925年の秋には馮玉祥と張作霖は名義上の同盟すらやめた。<br />
<br />
　馮に対する為に戦を交えていた敵同志の張作霖と呉佩孚との間に新同盟が結ばれた。この運動により老政治家唐紹儀が国政をとるようにすゝめられた。唐紹儀は政界ではあまり派手なことはしなかったが政治家達からは謹厳、有能の人として尊敬を集めている人である。<br />
<br />
　唐はこの勧告には余りいゝ返事をしなかった。そして当時揚子江渓谷地方で古傷を養い着々と軍備をとゝのえていた呉佩孚が、曹&#37653;を大総統にするの野心をもたない旨を言明し、また曹を大総統に選挙するために賄賂を貰っているようないんちき国会を招集しないという約束をしなければ、新同盟を支持できぬと言った。<br />
<br />
　唐はまた、新同盟は皇帝に対してとった不法な行為を無効であるとなし、優待条件により保証された特権を回復するという当時の噂を勇敢、明白に、卒直な態度をもって言明した。尚色々な理由の為に実現されなかったこの提案の単なる賛成に満足せず、当時比較的注意は引かなかったが、更に声明をなそうとした。その声明を我々が数年後の事件と比べて見ると非常な関心と重大さを有する。<br />
<br />
　1925年10月の終に至って発表されたその文書を次に述べる。即ち<br />
　<blockquote>「清朝の特権回復に関しては、唐紹儀は満州征服者が支那満州連合のおみやげとして満州をもって来ると言っている。漢人は清朝を倒したが満州は依然満州人の正当なる相続物たるもので、そして前皇帝の宣統は満州国に王権を回復することができる筈である。」</blockquote><br />
　唐紹儀がこの声明をなした数ヶ月後は上海滞在中彼と永い会見をし、公にされた記事が彼の正しい胸中を十分伝えているという言葉を聞いて満足した。<br />
<br />
　唐紹儀は屡々政界入りを勧められながら決して実行しなかった。然し、張作霖と呉佩孚の新同盟はその目的のあるものに於ては成功していた。目的の最も重要なものの1つは、馮玉祥の顛覆であった。彼は当時彼の心の故郷はモスクワにあると思うようになった。彼は1926年支那に於ける実際の政治生活から引退した後暫くモスクワで生活していた。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>結論</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-08T08:31:09+09:00</dc:date>
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    <title>第二十五章　（九）</title>
    <description>　龍の飛翔

　私は鄭孝胥が文学と同じく絵画に皇帝の逃亡の事件を記念したといった。ここに小さく複製されている絵に、砂埃の暗黒を通してたゞぼんやりと識別される禁城の城壁と楼閣の小部分が見える。嵐は亦特に木々の折れそうになっている枝で示されている。左側の前景の...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　私は鄭孝胥が文学と同じく絵画に皇帝の逃亡の事件を記念したといった。ここに小さく複製されている絵に、砂埃の暗黒を通してたゞぼんやりと識別される禁城の城壁と楼閣の小部分が見える。嵐は亦特に木々の折れそうになっている枝で示されている。左側の前景の古松は特に注目に価する。鄭孝胥は松を画いては当代の支那書家中随一の評判がある。そしてこれは彼の作品の良い見本である。北京街道（ぺきんがいどう）は何も見えない。即ちそれは完全にうずまく埃の中に覆われている。その真中の上部右手の隅に帝の脱出を龍の飛翔（ひしょう）に表示する目的の暗示――たゞそれに過ぎないが――のかすかな絵がある。龍は支那では皇帝の表徴の一つである。<br />
<br />
　その絵が絹の長い巻物に一般支那の方法で裏打ちされた時に、陳寶&#29723;と私は「龍の逃亡」の劇の関係者として巻物にその絵に関する批評を書くように招待された。その巻物は一般支那習慣に従って批評家や同朋書家の自署と落欸と「賛」をかく余地あるように空白が残されていた。私の批評は英語で書いた。そして単に既に記述したその事件の簡単な物語からなっているのでそれを再録する必要はあるまい。絵と一緒に陳寶&#29723;の優美にして壮大な能書の寄稿は、嵐と驚異（きょうい）を意味する二つの大支那文字から成り、それに短い注釈が付加されてあり、その詩を訳すと次の如くなる。<br />
<br />
　「蘇戡（そかん）」（鄭孝胥・ていこうしょ）は甲子（こうし）の年11月3日（1924年12月29日）の事件を記念するためにこの絵を描かれた。余、寶&#29723;（ぼうしん）はそれに次の詩を賛する。<br />
<br />
　風沙叫嘯日西垂　　　投心何門正此時<br />
<br />
　冩作昌黎詩意讀　　　天昏地黒巵龍移<br />
<br />
　太陽西山に没するの時砂風吼ゆ。<br />
　この危うき時に我身を寄する処は何処に在りや。<br />
　昌黎（しょうれい）の詩の心はよくこの絵を活（い）かした。<br />
　寸前暗黒の空と地に越えて「龍の逃亡」を描写している。<br />
<br />
　昌黎（しょうれい）は鄭孝胥（ていこうしょ）の最も賞賛した詩形の一つとして知られている有名な唐王朝の詩人韓愈（かんゆ）（768?824）の名である。彼の詩は、韓愈（かんゆ）とその友人にして、同時代の詩人柳宗元（りゅうそうげん）（773?819）のその影響をうけていると彼の文学上の友人達はいっている。そしてそれは韓愈（かんゆ）の影響が彼の詩に於てのみならずこの絵の中にも伝わっていると見られる。<br />
<br />
　以上が公使館地区へ皇帝脱出の真相である。それに関する多くの不精確な逸話は述べる要ない。しかし米国著述家により最近公表された次の重大な説明に対しては抗議をしなければならない。<br />
<br />
　<blockquote>「1924年10月に溥儀と彼の夫人が朝食中であった時に、彼女に仕えている召使が、荒々しい支那兵士の群が「廃帝とその夫人を殺せ」と叫んで門のところに集っている、と言って駆込んで来た。皇帝と皇后とは裏口から逃げた。彼等は英国公使館に遁（のが）れたがしかし門衛は入ることを拒絶した。公使館地区を遁がれまわりながら彼等は米公使館を考えてみたがそれも拒絶されるだろうと思った。彼等は日本公使館には行きたくなかった、しかし日本公使館の門衛は走りよって彼等を救い公使館の中に入れ、門を閉して後からの追跡者を護（まも）った。公使館の人達は優しく且つ親切であった。公使夫人は着物をよごしそして引裂いた避難者の皇帝と皇后が、公使夫妻の着物に着かえることをすゝめた。」</blockquote><br />
　<br />
　これらの序述は誤っているけれども、英国の名誉と好意を譏（そし）ってもいなければ咎（とが）めることもしない。実は英国の門衛が遁れてゆく皇帝と皇后に対して避難所たることを拒否したなどというのは嘘の皮である。その序述と同じ強さで、「米公使館を考えてみたがそれも拒絶させるだろうと思った」と書いているのは、相対照して面白い。私は米国公使館当局がかつては、殆ど政治的同情を持たないような亡命者にまで一度ならず避難所と寛大なる歓待（かんたい）とを与えたことがあるのに、「乱暴な支那兵士の群に死刑を宣告された」二人の逃亡者に対して門を閉めるはずがないと確信している。<br />
<br />
　英米人の慧眼なる読者はこの種の序述に迷わされるようなことはあるまい。<br />
<br />
　日満支をふくむ後年の政治的事件にかんがみて、更に重大なことは、支那紙その他によって、皇帝を日本公使館に招じたことは帝がこれら政治上の有力な鍵であることを知る日本の帝国主義者達の、執拗なる運動によるものとして日本を責める報道が屡々なされていることである。<br />
<br />
　以上述べたところより知るごとく、日本公使館芳澤氏は私から知らせるまで皇帝の公使館区域への到着を全く知らなかったのである。また皇帝を芳澤氏が日本公使館に保護することを許したのは私自身の熱心な懇願によったのである。日本の帝国主義者にいたっては「龍の飛翔」とは何らかんけいするところがないのである。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-07T20:12:15+09:00</dc:date>
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    <title>第二十五章　（八）</title>
    <description>　龍の飛翔

　鄭蘇戡氏（蘇戡は孝胥氏の号）の詩について、彼の日記から抜粋したものがある。ともに小冊子に印刷されている。以下はその訳文である。

　「11月1日、共産主義者は、人民の面に伝単（でんたん）をまき、プロレタリア独裁の歌を散布した。数万の伝単（でんたん...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　鄭蘇戡氏（蘇戡は孝胥氏の号）の詩について、彼の日記から抜粋したものがある。ともに小冊子に印刷されている。以下はその訳文である。<br />
<br />
　<blockquote>「11月1日、共産主義者は、人民の面に伝単（でんたん）をまき、プロレタリア独裁の歌を散布した。数万の伝単（でんたん）は帝国主義を呪っていた。翌日外国新聞によって馮玉祥が、北京に、又々クーデターを実行すると報知された。私は皇帝に呼び出されて、出来るだけ早く新しい居所を、見出すように、命じられた。その3日目（陽暦11月29日）に、私が、陳寶&#29723;から非常に危険なる時が迫って来たので、皇帝をドイツの病院にお移しすることにした、という秘密の手紙を受取った。<br />
<br />
　日はすでに午後であった。私は北府（ほくふ）（醇親王の居所）に自動車を駈（か）ったが、然し皷楼（ころう）に着いた時、陳寶&#29723;の空車がやって来るのに出遭った。そこで私は、彼は蘇州（そしゅう）に出発したということを語られたので、出来るだけ早く行って見たが彼の姿を認められなかった。<br />
<br />
　それからドイツの病院に行って、二階へ上って行くと、皇帝が、窓の下をあちこちと歩いていられた。皇帝のお側には、陳寶&#29723;（ちんぼうしん）の外に誰もいなかった。彼は、ジョンストンは既に和蘭と英国の公使館に行ったし、張文傑（ちょうぶんけつ）は、この事件を醇親王に報告する為に、急いで出発したが、間もなく帰ってくるだろうと、私に話した。<br />
<br />
　私は、皇帝に日本公使館に行かれることをお勧めした時、皇帝は、先ず私が先に行って、日本の当局者と会見するようにと、命じられたのである。私は直ちに、日本公使館の武官、竹本海軍大佐を訪問しこの皇帝の到着されたことを話したのである。竹本大差はこの事件を、芳澤公使に報告した後、私に、皇帝は公使館に来るにしても、来ないにしても、その点は自由であるからと、皇帝に伝達するようにと、話されたのである。<br />
<br />
　この時分には、激しい暴風となって、空には黄色の砂塵が上って数歩以前の方は、何も見えなかったのである。<br />
<br />
　その病院に私が戻ったときに私は運転手が命に服さないかも知れぬと心配した。そこで陛下は私の馬車で日本公使館に行かれるが最もよいと考えた。私は亦病院の前に集っている多数の人達を恐れて、病院の裏の戸口に馬車を廻させた。<br />
<br />
　一人の看護婦と鍵を持っていた一人の独逸人とが陛下を案内した。それから裏戸は開かれて陛下と私は車に乗った。若い男の召使が我々のお供をした。<br />
<br />
　その独逸病院から日本公使館までは二つの道があり、各々三分の一里程で、一つは東から西へそして北に曲っている道で、ずっと公使館区域内を通っており、他は長安（ちょうあん）通りに通じ、南に曲っている。<br />
<br />
　私は御者に日本公使館に逆戻りすることを命じた。しかし彼は北の方の道が一寸他の方より近いのを知って長安通りを走らせた。陛下は驚かれて叫ばれた。「通りにいる支那巡警を御覧なさい。何故我々にはこの道をきたのか」しかしながら馬車は速く走った。そして私は答えた。「すぐ近くです。陛下が馬車に乗っていらっしゃることを誰がわかりましょう？。驚くにはあたりません」と、それから我々は運河（うんが）（日英両公使館の間の公使館地区に運河になっている河）のかたわらを南に曲った。そして私は「さあ公使館地域に参りました」と申した。<br />
<br />
　我々は日本公使館に入った。そこには竹本大佐が待っていた。そして我々は公使館付武官部に連れていかれた。陳寶&#29723;とはそこで落合（おちあ）った。<br />
<br />
　我々が長安通りを走っていた間中、猛烈な砂風があり我々は寸前暗黒（すんぜんあんこく）の中を何処を進んでいるのか殆ど解らなかった。<br />
<br />
　我々が部屋に休息していたときに陛下は申された。「北府の人々は私が病院に行ったことがわかったろう。ジョンストンと張文傑（ちょうぶんけつ）は私を探しにそこに戻って行くに違いない。彼等に私のいるところを教えなくてはいけない」そこで私は病院に戻った。そこには醇親王と載淘親王（さいとうしんのう）がいた。私は彼等にお供し、数人の到着していた皇室の役人と一緒に公使館に戻った。<br />
<br />
　それから陛下は起った事件を段祺瑞に報告するように私に命じた。そして張文傑には張作霖に知らせるように指命した。私は家に帰り、手紙を数本認めた。私の息子の兎（う）の手でそれを発送した。そのときには夜であった。嵐はやんで全大空には星がきらきらしていた。私の二人の息子の垂（すい）と兎（う）は共に差上げる茶菓を持って日本公使館に来た。日本公使芳澤氏は御寝所として陛下に三つの自分の階上の部屋を捧げた。」</blockquote><br />
　この日記文を見ると鄭孝胥は竹本大佐が彼の本部に皇帝を受入れることを承知する前に、日本の公使に相談したと誤認している以外には精確に事実を記述していることがわかる。日本公使館の文武両部間の関係は英国と他の公使館のそれぞれの間の関係程に密接なものでなく、又親しいものでもなかった。実際それは竹本大佐が自らを当の公使の部下として考えていたかどうかも疑わしい。<br />
<br />
　それ故に彼は鄭孝胥（ていこうしょ）との会談を芳澤氏に報告する何らの義務を感じていなかったし、また報告もしなかった。彼は事実皇帝を自分の邸のお客と思い切っていたし、従ってその有名なお客が公使の方へ移るものとは考えていなかった。それ故に皇帝が既に日本公使館の境界内にあることは、芳澤氏は竹本大佐の家に皇帝が到着して後初めて聞いたのであった。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-06T22:25:30+09:00</dc:date>
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    <title>第二十五章　（七）</title>
    <description>　龍の飛翔

　この状態に於て馮玉祥が、張作霖に対して企てていた陰謀の詳細が、十分に暴露されていなかったことに、驚嘆するには及ばないのである。これらの詳細に就て、承知しているものは、僅かに数人に過ぎなかった。また張作霖の逃亡に就てはついその前に、馮（ひょう...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　この状態に於て馮玉祥が、張作霖に対して企てていた陰謀の詳細が、十分に暴露されていなかったことに、驚嘆するには及ばないのである。これらの詳細に就て、承知しているものは、僅かに数人に過ぎなかった。また張作霖の逃亡に就てはついその前に、馮（ひょう）、張（ちょう）の闘争に於て、馮玉祥は破られたのであるから、馮玉祥の秘密の共謀者等は、実行に到らなかった陰謀に参加したことを、白状する筈もなかったのである。<br />
<br />
　断片的な報道は、次から次へと、支那新聞に記載され、又小冊子（余り知られていないが）が支那の作家によって、英語で著作されたのである。私は齊洪林（すいこうりん）の「支那の政党」に就て論及する。この書に於て、馮玉祥は、不思議にも、「支那の頭領」と述べられている。この本の報告――私自身支那の材料からあつめたものに一致する――に従えば、張作霖や、皇帝や、その他の人に対するクーデターは、その時に西山（せいざん）の密議によって決定された。馮玉祥はその時天台寺（てんたいじ）と称する西山の寺に引退していたことが、思い起こされるであろう。<br />
<br />
　<blockquote>『この計画の第一条は、張作霖や、段祺瑞や、曹&#37653;や、今やヘンリー溥儀として知られている前帝、宣統帝に対する死刑の宣言であった。直隷省（ちょくれいしょう）の支配権で盧永祥（ろえいしょう）と争い、張作霖を憎んでいた李景林（りけいりん）将軍は、その奸策に対する一味であったのである。<br />
<br />
　1924年12月初めの晴れた日の午後李景林は突然北京を去って、天津に向った・・・・・慎重なる調査の結果、次のようなことが知られた、即ち奉天に向う李（り）の使命が、彼等の老統帥を北京にて弑（しい）し、後直ちに奉天軍の退路を、断つことであった。西山の陰謀を知って驚愕した張作霖と張学良とは、真夜中に、この事態の一変したことに、困惑している段祺瑞や、他のものを残して、天津に向ったのである。<br />
<br />
　張作霖と、その子張学良（ちょうがくりょう）とが続いて、逃走したことを知って、支那の頭領は、計画の残りを実行することは、単なる馬鹿げた事であるのだ、と思ったのである。その結果は、当時北京に於て、捕虜か、或はあやつり人形の扱いを受けていたヘンリー溥儀、段祺瑞（だんきずい）、及び曹&#37653;（そうこん）等は虎受の危難から逃れたのである。』</blockquote><br />
　記者が、「ヘンリー溥儀」とか「虎口の危険から救われる」とか記述しているのは、いずれにしても誤りである。計画実行の暁までには帝は日本公使館の安全地帯に、移転している筈だったから。<br />
<br />
　「皇帝の脱出（龍の飛翔）」は勇敢なる、熱誠なる愛国者として、読者諸君が知られる通り、現存せる支那第一の詩人、鄭孝胥によって、詩下に又絵に書かれた。<br />
<br />
　その詩は、八行節で、所謂七句体であり、第八世紀、唐時代に於て完成されたものである。その詩の英語の翻訳は、その原文の美と、気力とを、適当に表現することは困難である。その題目は「11月3日、皇帝の日本公使館へ逃亡に就て」と翻訳される。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-05T09:17:15+09:00</dc:date>
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    <title>第二十五章　（六）</title>
    <description>　龍の飛翔

　皇帝の車の運転台に乗って公使館地区に入った二人の巡警は車が猶支那管轄区域（しなかんかつくいき）内にあったときに、車を止めなかったことに対して責任を有すると考えたので、再び北府（ほくふ）に居ろうとしなかった。彼等は公使館地区（ここは全く外国支...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　皇帝の車の運転台に乗って公使館地区に入った二人の巡警は車が猶支那管轄区域（しなかんかつくいき）内にあったときに、車を止めなかったことに対して責任を有すると考えたので、再び北府（ほくふ）に居ろうとしなかった。彼等は公使館地区（ここは全く外国支配下にあることはご存知のことと思う）にとゞまることを許されたいと願った。そして彼等の歎願は許された。<br />
<br />
　名義上、仮に、彼等に皇帝の随員の一員となった。巡警は皇帝が北府を去るのを阻止する命令は与えられていなかったし、何が起っても当然責任を持つことはなかった。しかし彼等は若しも馮玉祥（ひょうぎょくしょう）が北京の完全なる支配権を取戻したならば、当然彼等に課する刑罰の恐怖を感じた。かくて皇后が翌日皇帝と落合（おちあ）わんとしたときに、車は外門に停車させられ、皇后は丁重に禁城にとゞまっていなければならぬと要求された。<br />
<br />
　皇帝は皇后から救助方を工夫するように帝に懇願して来た小さな紙片を私に見せた。その問題は芳澤氏に伝えられ、氏は直ちに運動を開始した。彼は皇后を公使館に連れ戻り、しかして彼女を連れずには帰るなと命令して、北府に外務書記官の一人をつかわした。暫くしてその秘書官は皇后は彼に同道する用意もでき、かつ切望しているが去ることを許されないといって北府から電話を掛けてきた。<br />
<br />
　一刻も猶予せず芳澤氏は車を命じ、行政部長段祺瑞（だんきずい）を訪問し、そして如何なる種のどんな抑圧も皇后の行動になさぬことを北府の即刻軍憲に発令せられるよう丁重に且つ確固として要求した。一時間たゝぬうちにさきの書記官は皇后を一緒に伴れて、勝ちほこって公使館に戻ってきた。<br />
<br />
　11月30日の夜に私は張作霖に第二回訪問をなそうと決心した。それは一つには私が彼の要求により公使館地区にてした行動の結果を報告する約束を全うするため、一つには何故帝が或外国公使館に避難したか、出来るだけ巧妙に説明するようとの、皇帝の命令を果すためであった。<br />
<br />
　私がこの場合に出くわした張作霖は数日前の張作霖とは全く別人であった。私は自分が温和な、同情心のある、丁寧な支那紳士ではなく、満州人の山賊、傲慢な行儀の悪い、乱暴な人に面接していることを知った。彼が態度をどの程度まで変えたかはいうのは困難である。しかしこの場合に彼が私室に於てではなく、三つのドアの開け放しの広間の中で私を迎えたのは注目に価する。その三つのドアには興味をいだいた傾聴者が立っていた。これから見て彼はいおうとしていたことを秘密にせぬことを希望したことは明らかのように見えた。<br />
<br />
　如何なる儀礼行為もぬきにして、張作霖は正ちに公使館区域（こうしかんくいき）に皇帝を連れて行ったことに対して私を極端に避難したのであった。<br />
<br />
　彼の言ったことから、私は、北府が事件の全責任を、あらゆる手段によって私の双肩にかつがせてしまったものと、推察したのである。少しく説明を試みたが、然し張作霖の地位の不安定な、微妙な問題に触れなければ、私の行動を明瞭に説明することは困難であり、この問題を他人の目前ですることは、不可能である。張作霖が北京にいる間、北府にいる皇帝に、降りかゝっている害悪は、どんなことであるかと、始終詰問した。私は帝が去る前から、帝を危険から、必ず救済しなければならぬと考えていた北京には、決して長くは滞在できないと確信していたが、それは、私の身辺に十分なる守護がなかうては、言えることではない。<br />
<br />
　我々が以前に話した問題に関して、張作霖は私に聞こうとも、話そうとも、しなかった、彼は交渉を混乱に陥入れ、別れの答礼もせずに、荒々しく部屋を去ったのである。<br />
<br />
　この会見の時には、張作霖は、自分の身辺が危険に瀕していることを自覚していたか、或は、皇帝の例に従って亡命（ぼうめい）せねばならぬことを、悟っていたか、それを言明することは不可能である。若し、彼かその時、自覚していなかったとしても、数日中には分ったことである。12月の寒い早朝、召使が英国公使館の私の部屋（その時、私は公使館の賓客となっていた）に入って来て次の如き事件を報告した。即ち張作霖がその朝、未明（みめい）に特別列車で北京を去った。北京は再び、馮玉祥の混乱せる軍隊の支配下にあると、報告したのである。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-04T09:23:58+09:00</dc:date>
    <dc:creator></dc:creator>
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    <title>第二十五章　（五）</title>
    <description>　龍の飛翔

　私は喜んで独逸病院に戻った。すると、内務府の一員―重齊徐（とうせいじょ）―が丁度到着していた。彼は内務府官吏中、皇帝に誠実に忠実であった一人であった。そして公使館地区まで皇帝を送って来た最初の人であった。彼は、皇帝はどこにおいでかと尋ねた、...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　私は喜んで独逸病院に戻った。すると、内務府の一員―重齊徐（とうせいじょ）―が丁度到着していた。彼は内務府官吏中、皇帝に誠実に忠実であった一人であった。そして公使館地区まで皇帝を送って来た最初の人であった。彼は、皇帝はどこにおいでかと尋ねた、そこで私は彼を階上に案内した。途中で私は独逸人の男看護夫（おとこかんごふ）に出合った、彼は「どこに行くんだ」と尋ねた。「皇帝にお会いに」と私はいった。「何？皇帝」と彼はいった。「ここには皇帝はいない」「馬鹿を云え」「私は自分で皇帝を連れてきたんだ」と私はいった。<br />
<br />
　彼は私を見詰めそしてかすかにほっとしたように見えた。「皇帝はここに居られた」と彼はいった。「しかし今はいない」重齊徐（とうせいじょ）と私とは茫然とその男を見詰めた。「どこに行ったんですか」と私は尋ねた。<br />
<br />
　「私はちっとも知りません」と即答した。「しかし私は今しがた日本公使館（にほんこうしかん）に行くよう準備をしたばかりなのだが」と私は困惑して叫んだ。<br />
<br />
　「確かにそこに行ったに違いありません」とその正直な男は答えた。<br />
<br />
　これでほっとはしたが猶当惑した。「デイパー博士はどこへ行ったか」「博士は帰宅されました」とその看護婦はいった。「そして若しも誰か見知らぬ人がやって来て皇帝を尋ねたなら、皇帝はここにはいないと答えろと博士は仰言いました」<br />
<br />
　途中で私に答えたその男と握手し、そして重齊徐（とうせいじょ）と共に日本公使館に急ぎ戻った。そこで我々は皇帝を公使宅でなく、日本公使館付武官竹本大佐（たけもとたいさ）宅で見付けた。鄭孝胥と陳寶&#29723;と皇帝とは一緒にいた。公使の姿は見当らなかった。<br />
<br />
　その不思議は間もなく解けた。鄭孝胥はその朝北府（ほくふ）に行く道で帰ってゆく陳寶&#29723;の車の中に出合った。馭者は彼の主人が二台の自動車に皇帝と自分とを乗せて蘇州胡東（ことう）に行ったと彼に話した。鄭孝胥は直ちに自身の車でそこに走ったが我々の行方を発見しなかった。それから彼は独逸病院へ行った。そこで彼は御安全な皇帝を拝した。<br />
<br />
　しかしながら皇帝は出来るだけ速く何れかの公使館に避難せらるべきことが彼の最も懸念したことであった。そして既に不運にある皇帝に同情と、皇帝を助ける強い欲求とを示した竹本大佐（たけもとたいさ）と個人的に知合いであったので、鄭孝胥は一時の手段として皇帝は竹本大佐の同情を受入れらるべきことを暗示した。皇帝は用意され、鄭孝胥は私が公使の書斎にいた丁度その時にあらかじめ竹本大佐のもとを訪問をした。大佐は皇帝を迎えることに同意し、且つ鄭孝胥に直ちに公使にその問題を報告する所存であると述べた。しかしながらそれは行われなかった。<br />
<br />
　それから鄭孝胥（ていこうしょ）は病院に戻り、それから皇帝を自分の車で日本公使館に連れていった。公使館地区の詳細なる境界に不注意にか知らなくてか、運転手は車を長安（ちょうあん）通り即ち公使館地区の外側80ヤード内外の間を駆った。幸運にも我々に都合がよかった埃にまみれた風は、この時には既に砂嵐となっていた。そしてこれは公衆の眼から車及びその乗客を隠すに役立った。数分にして車は公使館地区の中に、英国公使館を日、伊、両公使館から分けている掘割の岸に沿うて再び南に曲った。<br />
<br />
　竹本大佐は日本公使館の門の処で彼等を待っていた。そして彼等が落ちついてから間もなく、私が訪問したのだ。大佐が公使に相談したのは彼等の着いた直ぐ後であった。そこへ公使芳澤氏がドアを開けて歩み入った。だから公使がその後数ヶ月間お客となる運命にあった著名な訪問者（皇上）に挨拶したのは私が着いて後であった。<br />
<br />
　一時間たゝぬうちに公使宅にて皇帝は指定された心地よい部屋で休んで居られた。そして日暮前に帝は精神錯乱せる満州貴族の神経質な興奮した父（ちち）と内務府役人のおしゃべりをしている群集から、非難と祝福とを交互に同様に聞きながら心地よき応接間に坐っていた。醇親王のいうところは是が非でも北府（ほくふ）に戻るようということであった。しかしそれは体裁よく拒絶された。<br />
<br />
　皇帝の脱出は禁城からの彼の放逐により惹起した衝動とほゞ同様な衝動を起した。その種々なる説明は新聞に現れた。しかしそれは不適切なる報道と大部分風説にもどずいているので、皆不精確だ。日本公使は12月2日北京の諸新聞に報道された会見に於て彼は如何にして皇帝の主人役となるに至ったかを明らさまに且つ有りのまゝに説明したけれども勿論罵言された。その攻主撃の目的として私自身を含んでいるある新聞の最も罵言したのは、北京にて一般に有力なる共産主義者の支持を有すると了解されていた欽（きん）報と学生機関として見做されていた晨（しん）報とであった。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-03T12:24:59+09:00</dc:date>
    <dc:creator></dc:creator>
    <dc:rights></dc:rights>
  </item>

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    <link>http://twilight.nishiokanji.com/?eid=547057</link>
    <title>第二十五章　（四）</title>
    <description>　龍の飛翔

　我々の選んだ道路は曲がりくねったもので即ち私は馮玉祥の軍隊の二つの分遣隊（ぶんけんたい）に逢うのを避ける為に二度方向を運転手に変えさせた。――そして三里以上もないドライブであるべきものが殆ど五里のものとなった。然し幸運にもドライブは無事であ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　我々の選んだ道路は曲がりくねったもので即ち私は馮玉祥の軍隊の二つの分遣隊（ぶんけんたい）に逢うのを避ける為に二度方向を運転手に変えさせた。――そして三里以上もないドライブであるべきものが殆ど五里のものとなった。然し幸運にもドライブは無事であった。自然は我に味方した。なぜならその日は強風が吹いて空中は秒塵で朦朧（もうろう）としていた。我々が東側は蘇州胡東（ことう）、西側は公使館地区となっている哈達門（はたもん）街に到着した時、私は運転手にいきなり蘇州胡東（ことう）に行かずに、右手に曲って、皇帝が前に私からお話した写真をお調べになるからハルタングと言う独人経営のある写真屋に着ける様にと命じた。<br />
<br />
　「私はその店を知っている。それは公使館地区にある」と運転手は言った。「とにかくそこへ着くまで真直に行ってそこで止まれ」と私は命じた。<br />
<br />
　二人の武装した警官が何も言わなかったので非常に安心した。<br />
<br />
　二分間過ぎて我々は公使館地区の西の門を通りすぎ写真屋の前に止った。我々は車から降り歩いて入った。そして二三枚の写真を見て買い取った。我々がこんなことをしている間、私は幸運にも今は何ら重大でない一寸した失策（しっさく）をした。習慣の力から私は皇帝を彼等の皇室の称号即ち皇上で呼んでしまった。店にいた支那人は驚いて見上げ彼等の一人は通りに走り出た。我々が店を離れた頃までには支那民衆の群が我々を待っているのを発見した。然し彼等は単に拝したがっているのだったから静かだし、害もなかった。そして初めて彼等の前皇帝を眼のあたり凝視した。<br />
<br />
　私の自動車は道すがら我々の後にしたがった。そして私は私の尊敬すべき同僚陳寶&#29723;（ちんぼうしん）の顔に静かな満足げな表情と、彼の仲間の当惑した顔つきを見とめて悦（えつ）に入った。「何故我々はここに来たのですか、なぜ我々は蘇州胡東（ことう）に行かなかったのですか」と彼は昂奮（こうふん）して尋ねた。私はそういう張文傑（ちょうぶんけつ）には留意せずに皇帝にむかって「デッパー博士はすぐ側に居ります。行って彼に会うではありませんか」と言った。説明すればディパー博士は、この二年間屡々禁城に招かれた有名なドイツの医者であった。彼の診察室はよいことに公使館地区内にあるドイツ病院にあって、我々の今いるところからわずか自動車で一分許りの処にあった。<br />
<br />
　我々は再び車に乗って病院へと走らせた。そして降りて病院に入って行き出来るだけ早く面会を求めて名刺を差出した。彼は彼の部屋から出て来て皇帝を見とめた。私は重大なことを話し度いから私室に連れて行ってくれる様にと頼んだ。彼は誰もいない二階の病室に一行を連れて行った。<br />
<br />
　私は簡単に我々の考えていることと起った出来事を話した。「とにかくに私はすぐに外国公使に会見に行こうとしているのです。皇帝には貴方の保護をお願いします。帝がよく保護される様何卒気をつけて下さい」と私は言った。<br />
<br />
　私は皇帝が私に委託された真珠と宝石の包を取り出し帝にそれを渡した。それから皇帝を陳寶&#29723;（ちんぼうしん）と共に残した。張文傑（ちょうぶんけつ）は二階までは一緒に来なかった。彼は驚愕と憤怒又はその両方で一言もなくひとりで、同じく恐れ驚いている醇親王に今朝の破天荒（はてんこう）な出来事を知らせる為に急いで出て行った。<br />
<br />
　私は初め日本公使館（にほんこうしかん）に来た。私がそうしたのはすべての外国公使の中で日本公使が一ばん皇帝を受け入れてくれる許りでなく、且つ効果ある保護を与えることが出来る人であると感じたからである。<br />
<br />
　この時は一時近くになっていた。日本公使は昼食の為留守であった。それで私は和蘭公使館に行った。然し彼も又外出していたので最後に私は英国公使館を訪れた。サー・ロナルド・マークレーは在宅していた。私は彼に起った事柄を簡単に述べた。英国公使は支那の国内的政治に干渉の意にとられるかも知れない行動に英国の臣民が加わることを非常に反対していることを私はよく知っている。それ故私は皇帝の脱出に関して私自身成した仕事には出来るだけ軽く言及し、私が公使館地区に皇帝の伴をして車を走らせたことも皇帝の御命令によると附け加えた。<br />
<br />
　私は更に言葉をついですでに日本公使館を訪ねたこと、公使芳澤謙吉（よしざわけんきち）氏が承知してくれればこの上もない幸であると思ったことを語った。<br />
<br />
　公使は同意し、そして十分熟考した上で、若しも問題が計画したとおりに運んだならば彼は私が皇帝に出来るだけお側にいられるように、英国公使館に私を招待してやると付言した。日英両公使館は殆ど顔向き合わせていた。<br />
<br />
　私は日本公使館に立帰った。しかし公使はまだ戻っていなかった。そして三時近くなって彼と会見した。彼は私のいうことに耳を傾けた。そして日本公使館の同情を皇帝に与えられんことを彼に願ったときに、彼は即答しなかった。<br />
<br />
　その問題を考えながら部屋をあちこち歩いてそれから私に決意を示した。彼は皇帝を引き受けた、しかし皇帝に対して適当なる部屋を用意したいからと、私に独逸（ドイツ）病院に帰り、通知を待つように求めた。私はその後になって分ったのだが芳澤氏と彼の夫人が皇帝のために用意した「適当な部屋」は自分達の私室（公使館中の最善の部屋）であった。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-02T09:24:59+09:00</dc:date>
    <dc:creator></dc:creator>
    <dc:rights></dc:rights>
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    <title>第二十五章　（三）</title>
    <description>　龍の飛翔

　11月28日に鄭孝胥（ていこうしょ）と陳寶&amp;#29723;（ちんぼうしん）が私の家に相談に来た。彼等は、信ずべき筋よりの報道に非常に驚いて、その旨皇帝に申し上げたいというのである。皇帝は公使館に出来るだけは近く新住居の宮殿を見つけるように命ぜられた。

　...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">　<font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　11月28日に鄭孝胥（ていこうしょ）と陳寶&#29723;（ちんぼうしん）が私の家に相談に来た。彼等は、信ずべき筋よりの報道に非常に驚いて、その旨皇帝に申し上げたいというのである。皇帝は公使館に出来るだけは近く新住居の宮殿を見つけるように命ぜられた。<br />
<br />
　当時北京で新しいクーデターの敢行が予想されていたという風説は、外国紙の報ずる所となったが、支那紙では敢えて沈黙（ちんもく）を持していた。恐らく、風説のとるに足らぬと言う点からではなかったらしい。私は外国の公使達は幸にも切迫している悶着を何も知っていないらしいと指摘したが、この事は彼等二人を活気つかせはしなかった。<br />
<br />
　我々は最後に、馮玉祥や張将軍を怒らす危険に当面するに至ってもやむをえないが、翌朝皇帝に会う時醇親王の邸宅よりも安全な地点に皇帝を、お移しするように尽力をすること等をとりきめた。その地点として、我々は公使館地区の東の入口にあたる哈達門（はたもん）に近く蘇州胡東（そしゅうことう）と言う通りの、大きな貸住宅を見立てた。内務府はその分局の事務所として使用するために既にこの家の貸借契約を交渉し始めていたのである。<br />
<br />
<br />
　私が翌日の11月29日の朝北京北部に到着した時、鄭孝胥はやって来なかったが、陳寶&#29723;（ちんぼうしん）は熱心に私を待っていて、そして私に、最近の情報によれば馮玉祥はその軍隊を市中に増援し、突然西山の寺に彼の幹部将校のある者を会議に召集していると、私に語ってくれた。<br />
<br />
　如何なる時に於ても馮（ひょう）は北府に彼自身の部下の武装した衛兵を送り得る。段祺瑞（だんきずい）や張作霖はかつてそこから馮の兵を無理に退かせたのである。そんな場合になれば皇帝の逃亡に対する最後の希望は破壊されるのである。馮は市中のあらゆる部分に軍隊を配備したので、時すでに遅すぎた訳である。最早一刻の猶予もならず、直ちに計画を運ばねばならないことになった。陳氏は我々の計画をまず醇（じゅん）親王に告げる様申出た。私はこの提言に強く反対した。それは醇親王が皇帝脱出の結果を恐れて、反対するかも知れぬからである。<br />
<br />
　我々はそれから皇帝の部屋に行った。そして帝に時局は危険であり、我々は彼が公使館地区に行き、そして外国大臣の保護下に置かれる様決定したと告げた。彼は我々の言う事に従い、我々が最善だと考えたことを為すように返事をされた。私は皇帝に、北府では我々の外誰にも仮令皇后にも亦父君にも、この計画に就て言わないことが非常に重要であることを強調した。決して皇后にも父君にも仰って下さるなと申し上げた。皇后はあとから来られゝばよい。若し皇后が我々と一緒に出るなら、皇后の同車されることから注意を引き従って我々は車をとめられねばならぬからである。皇帝はこれにも我々の意志にしたがった。<br />
<br />
　我々の計画に関して何らの疑念をもさける為に、皇帝は彼の出発に際し何度仕度もされず、荷造りもしなかった。そして帝は私に真珠の包や、他の宝石類をお渡しになった。私はそれを毛皮の衣服の隠（かく）しに押しこんだ。皇帝の車はそれと区別する標識（ひょうしき）は無かったが、それでも我々が前方の庭園に到着するまで出発命令を出さなかった。丁度皇帝が車にお乗りになろうとした時親王家の執事の張文傑（ちょうぶんけつ）が、急に室内から出て来て我々が一体何処へ行くか尋ねた。陳寶&#29723;（ちんぼうしん）が少しドライブして来るのだと答えた。すると張文傑は驚いたらしく、疑い深い様子で、同道してはいけないかと尋ねた。然しこの申し出に如何なる反対もなされなかった。<br />
<br />
　皇帝は、お乗りになると、私を帝の側に坐らせ、そして運転手に必要な指図を与える様に命ぜられた。運転手は幸福にも皇帝の非常に忠誠な召使であった。亦他の召使である若い満州少年は運転手の傍の席に坐る様に命令された。陳寶&#29723;（ちんぼうしん）は我々は蘇州胡東（ことう）に行くのだといって自家用の馬車を帰邸させ、後から車に乗り込んで来た。<br />
<br />
　大門は開かれて居り、その門をくゞり二台の自動車が公道に出て行った。巡視（じゅんし）の衛兵は門の処に留まっていた。明らかに衛兵達は誰何（すいか）の指図をうけていなかったが、二人の武装警官が自動車の走っている車体に飛び乗り、我々と同行した。<br />
<br />
　我々の目的はすべての主要道路を避けることだった。主要道路には馮の兵隊が充満して居ったからである。更に尚中央大通りをも避けた。その道路は皇門（こうもん）から展山（てんざん）や禁城まで通じていた。醇親王の宮廷を出る前に私は既に運転手に内務府が契約を申し出たその蘇州胡東（ことう）の家を我々が調査する積り故市外の東の部分をドライブする様に話しておいた。鄭孝胥（ていこうしょ）は未だにやって来ていなかったから陳氏から密使を送っておいた。その文中には我々は皇帝を公使館地区にお遷（うつ）し更に同地のドイツ病院に暫く御滞在をお願いしたとあった。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-07-01T08:50:26+09:00</dc:date>
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    <title>第二十五章　（二）</title>
    <description>　龍の飛翔

　暫時の間、全ては巧（うま）く運んで行った。私は皇帝を毎日訪問した。帝はこの三週間の危険と心配を勇気と威厳で耐（た）え忍ばれたのである。帝は自分の扱われて来た習慣や、彼が受けた侮辱には当然愛想をつかしていた。然し彼は馮玉祥や王正廷（おうしょう...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">　<font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　暫時の間、全ては巧（うま）く運んで行った。私は皇帝を毎日訪問した。帝はこの三週間の危険と心配を勇気と威厳で耐（た）え忍ばれたのである。帝は自分の扱われて来た習慣や、彼が受けた侮辱には当然愛想をつかしていた。然し彼は馮玉祥や王正廷（おうしょうてい）及び、その共謀者等が、支那の人民の代表者や代弁者であると号しながら、それが一向真実でない事を信じていられたから、心配もされなかった。又外国紙が（シノクスシンプソンの補助金を下付された新聞とは別に）彼等の行動を如何に率直に又、異口同音（いくどうおん）に攻撃したかを知られて自ら慰め満足された。<br />
<br />
　然し二、三日の中に空は再び曇り始めた。近く新しいクーデターが起りそうだという奇怪な噂が流行し始めた。馮玉祥は天津から還（かえ）って以来すねてしまった。彼は引退すると称して西山にある仏寺に隠退（いんたい）した。そこでは彼は最も密接な同僚以外には誰とも逢わなかった。然しながら彼が引退（いんたい）すると語った時、誰も真実だとは信じなかった。彼が面目を失したと言う事は周知の事実であった。<br />
<br />
　皇帝の身辺につけた彼の監視兵（かんしへい）が撤退（てったい）を余儀なくされた事は、この事実の幾多の証拠の中の一つである。呉佩孚（ごはいふ）に対する馮玉祥の裏切により張作霖が内乱に於て全く勝利を得たにも拘らず、彼は馮玉祥を嫌悪（けんお）し賤（いやし）んだ。彼等の間に於ける同盟なるものは若し有ったとしても永続的なものでは有り得なかった。遅（おそ）かれ速（はや）かれ二人の同盟者は戦端（せんたん）を交える形勢にあった。<br />
<br />
　これは誰よりも馮玉祥自身がもっとも明白に認めていた。然し馮（ひょう）は以前、自分が下野、引退を宣言した関係上、戦争だけは是非とも避けなければならない。どう言う風に仕向ける可きであったろうか。それには唯一つの方法があり、それは殆ど馬鹿げて容易（たやす）い様に見えた。馮は当時未だ北京地域の軍部の統制者（とうせいしゃ）であり、張作霖は衛兵を有するのもであった。<br />
<br />
　故に衛兵を囲み武装を解除せしめ、彼自身の本営に於ける茶の会に将軍を招き、内部の多くの庭園の中の一つを散歩する段取（だんどり）にする。即ち、支那国家の戦場から永久に張将軍を除きうるに至るやも知れぬ。これより簡単な方法が他にあるであろうか。<br />
<br />
<br />
　馮玉祥がこのような非常手段を企（たくら）んでいたかどうか、それはどうとも明言できぬ。然し私の知り得たところでは、外国公使館の事務官から聞き得るよりも以上に信ずべき通信の本源と接触して居った皇帝の友人達には、これを事実と信じていたものがある。私が噂を公使館区域に伝えた時、私は世を惑（まど）わす者と看做（みな）された。<br />
<br />
　私が英国人の友人の友に、張将軍は何時でも何らかの不思議な出来事か、又は汽車か自動車で天津へ急ぐ旅行かで姿を消すかも知れぬと告げた時に、私は北京の政治科界が平穏であり、将軍も又十日間内に英国公使館で晩餐会の招待を受けていたのだと反撥（ぱつ）された。この事は即ち彼が北京を離れる意志のない事の確実な証拠であるというのである。<br />
<br />
<br />
　張作霖は善悪同じ位に沢山の著しい性質を有していた。盗賊の地位からフランスとドイツを合した程大きな地域の上に指揮する至上（しじょう）の主権の地位に鮮やかに昇格（しょうかく）した秘密を包蔵（ほうぞう）しているその性質の一つは、彼が自己の中に限り無き自信を有していたことである。然し尚一層危険な性質は、彼がその競争者をとかく侮り勝ちであった点である。彼が呉佩孚（ごはいふ）に対して感じ、又屡々表示した不遜（ふそん）の冷罵（れいば）は、彼の眩惑的（げんわくてき）な生涯を殆ど惨憺（さんたん）たる終局へと齎（もたら）した。<br />
<br />
　馮玉祥の悪逆（あくぎゃく）な陰謀に関して再三繰返した警告に対して暫くの間、余り注意を払わなかった事が、すでに致命的な結果になる様に思われた。彼は馮の誠実と良き信念を信じていないのみならず、私が彼自身の口から知った如く、彼は馮を謀反をやりかねない人間のように見ていた。然し彼は事実によって証明されるまでは軽蔑（けいべつ）すべき馮が満州の勝誇る「戦の神」である彼に向い敢えて反逆の火の手を挙げるだろうとは考えていなかった。<br />
<br />
　皇帝の友人達は将軍のような楽観主義を有していなかった。私は彼等が当然の見透（みとお）しに就て益々悲観的であったのが解った。我々は、皇帝が最早幽居（ゆうきょ）の身でない今日、醇親王府を離れ公使館区に避難する機会――それは或は忽然（こつぜん）としかも永久に失われるかも知れない――をとらるべきか否かの問題を、しばしば論議した。<br />
<br />
　然しながら常に論議は親王達や使傅（しふ）や内務府の役人達側のくだらぬ同意に終った。それは段祺瑞や張作霖に依って皇帝の為に為された事を考えれば、皇帝が公使館区にお立ちになる事は、帝が彼等の不抜（ふばつ）の制度に信頼を置いていず、又彼等の良き意向に何らの信念も持たぬことを示すものであるから、彼等の強い恨みを買うであろうというのである。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-06-30T09:20:09+09:00</dc:date>
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    <title>第二十五章　龍の飛翔　（一）</title>
    <description>　龍の飛翔

　段祺瑞（だんきずい）は1924年11月22日北京に入城し、張作霖は23日に到着した。段は軍隊を連れておらず、張は僅かに一団の護衛兵を率いていたばかりである。段祺瑞は執政の名の下に仕事をはじめた。大総統を名のらず執政となったのは、すでに議会が消滅（しょ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">龍の飛翔</font><br />
<br />
　段祺瑞（だんきずい）は1924年11月22日北京に入城し、張作霖は23日に到着した。段は軍隊を連れておらず、張は僅かに一団の護衛兵を率いていたばかりである。段祺瑞は執政の名の下に仕事をはじめた。大総統を名のらず執政となったのは、すでに議会が消滅（しょうめつ）して大総統選挙の合法機関がなくなっているからである。執政とは一時的、暫定的（ざんていてき）の統治をあらわすものであり、すなわち段祺瑞が作った政府の一時的な現象たるにとゞまる。<br />
<br />
　翌日の支那及び外国新聞は次のような発表をしている。<br />
<br />
「昨日段祺瑞元帥は臨時執政の職についた。臨時執政はまず清朝皇帝に加えられる各種の制限を除こうとし、帝師R・T・ジョンストン氏に自由に帝を訪問し得べき旨を伝えた」<br />
<br />
　更に「段祺瑞元帥の命により、馮玉祥の兵は昨日醇親王府（じゅんしんのうふ）を引払い、警視庁から派遣される巡警（じゅんけい）を以てかわることとなった」<br />
<br />
　同時に、張作霖は北京にいたる清朝皇族の誰とも面会せず、且つ、外人使傅の仕事に興味を持ち多分ジョンストン氏を訪問するものと見られるという不思議な報道が伝えられている。<br />
<br />
　これらの記事は偽（いつわ）りでなく、私は執政から自由に皇帝を訪問してもよいことを知らされ、ほとんど同時に皇帝から、馮玉祥軍が北府から撤退（てったい）したこと、直ちに参邸（さんてい）すべきことを伝えて来たのである。<br />
<br />
　私は北府へと自動車を飛ばし、直ちに入門を許された。皇帝は彼の自邸の庭園で私を待って居られた。そして私の手をしっかと握り暫（しば）し言葉も無かった。それから私を私室に招じ入れ永い間談話を交えた。その話は不必要だから省くが、私共が話している間に張作霖元帥から、日没後出来るだけ早くその夜の中に訪れてくれる様にと依頼した個人的な通信が、直接に私にもたらされた。私は承知したと言って使を返し日没まで皇帝と共にいて退出する時、皇帝は、私にダイヤのはめこんだ黄玉の指輪と一緒に署名のある写真を張作霖に送ってやる様にと私に渡された。<br />
<br />
　6時頃暗くなったので、私は城の西にある張（ちょう）元帥の本営へと自動車を走らせた。唯一の同行者は醇親王の執事（しつじ）の張文傑（ちょうぶんけつ）と言う人で、将軍の古い友達で同名者ではあるが親類ではない。到着するや我々は元帥の武装した衛兵（えいへい）のつめている多くの庭を通過した。将軍は親しい略式の方式で我々を迎えた。彼は支那の平服を着用して居り彼の幕僚（ばくりょう）の人々の侍（はべ）る所で数分間の月並的（つきなみてき）な会話を交えた後、小さな奥まった書斎へ来る様と求められた。一時間会談している間、戸はとじられていた。又普通のお茶を持って来る侍者さえもその部屋には入って来なかった。<br />
<br />
　私は将軍に皇帝からの賜物を渡した。彼は写真を手にとり永い間それを考え深かげに見て指輪は一瞥（いちべつ）すると私にそれは返された。彼は写真は受けたが指輪は受けなかった。<br />
<br />
　それから彼は馮玉祥と彼の同僚が皇帝に反対して為した行動を、忌（い）むべきものと考えたと言う事を少し詳細に説明した。彼は皇帝を援けて、為されたる悪事を打消したいと思ったが、彼が君主政体の恢復（かいふく）を求めていると言う疑惑（ぎわく）を共和政府内部に惹起するかも知れない様な行動はしない方が肝心（かんじん）であると告げた。それから更に或る計画を説明し始めた。その案に依れば皇帝は、彼の復位（ふくい）が満州側（がわ）の支持に基くと言う考えに何らの真実らしき色彩も無く、皇帝自らの特権で復位し得るものというのである。<br />
<br />
　この計画に就てはここに詳細にする事を避けたい。唯彼は初めの手段が蒙古人や満州人や、心より忠誠乃至は国家的栄誉に対する関心（かんしん）等により、大清皇帝退位後の優待の条件の単独廃止（たんどくはいし）及び何らの修正をも不当とする支那人達が、先駆をすればよいとしていたことだけ述べれば十分である。彼の計画を効果的ならしめる為には外交団に、ある種の通信を伝えることが望ましかった。そして私と懇談中（こんだんちゅう）の主要目的は、私をして有効諸強国の公使達にこの通信を伝えしめん事を望んでいると言うことが分った。<br />
<br />
　私は彼の望み通りにする事を同意した。そこで彼は5、6日後に彼を再訪して公使館区域での私の行動の結果を知らしてくれる様にと依頼した。<br />
<br />
　この会見が終ると張文傑は皇帝と醇親王にその報告をする為に帰って行き、私は家へ帰り駐支外交官達へ通信するために彼との会見の覚書を書いた。私は三枚の写しを書いて同夜、11月5日に皇帝の為に敏速に行動した三人の人々に手交した。即ち、英国、日本、そして和蘭公使で、とくに和蘭公使は外交官団首席であり、又若し彼が適当と思えばかの外交団の同僚達に私の覚書の内容を伝達する地位にあった。然し彼がそうしてくれたか、否かは言明の限りではないし、又私の覚書の交付後の事についても勝手にのべられない事情にある。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十五章</dc:subject>
    <dc:date>2005-06-29T09:45:04+09:00</dc:date>
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    <title>第二十四章　（七）</title>
    <description>　幽居の龍

　馮の次席の配下である劉金林（りゅうきんりん）は、皇帝を訪れて彼等をして不必要な騒ぎを起さずに、自発的に宮城から去らしめる様に、皇太妃に対する帝の個人的力を利用する様に――すべく、帝を説き納得させる様にと馮の代理として任命された。皇帝が苦境か...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">幽居の龍</font><br />
<br />
　馮の次席の配下である劉金林（りゅうきんりん）は、皇帝を訪れて彼等をして不必要な騒ぎを起さずに、自発的に宮城から去らしめる様に、皇太妃に対する帝の個人的力を利用する様に――すべく、帝を説き納得させる様にと馮の代理として任命された。皇帝が苦境からキリスト教将軍を救おうというのに特別の義務を感じなかったのは無理でない。しかし帝は、若しも帝がこの問題に加わらなかったならば又二人の老婦人が脅（おど）しの意味をもつ自殺を実行するならば、帝の敵は疑う余地もなく、彼等の死についての責任を帝に負わせるであろうと言うことを知っていた。<br />
<br />
　かくして、彼等は董康（とうこう）の葬式が終るまでそこにいることを許されると言う約束をして、皇帝は遂に皇族及び一族を禁闕から去る様に説伏させることに同意したのである。宮殿に於ける葬式の儀式は11月19日に終った。そしてその日の午後全（あら）ゆる皇帝の光輝が奪われた静かな小さな行列が心勇門から出て鼓楼（ころう）に近い寺院へと董康（とうこう）の棺（ひつぎ）を護って行った。そしてその寺院を最後に皇室の霊廟へと移す前の安置所とした。二日後に二人残った未亡人は禁闕のその門を出て遂に出て行った。<br />
<br />
　多少とも忠実なる宦官の小人数が市民街の東の彼等の新しい家へとつき添って行った。恐らくは、これらの宦官（かんがん）のみが禁城に於ける太妃等の静穏と閑居が永久に閉ざされて以来この二人の老婦人が耐（こら）えて来た精神的苦悩に就て十分なる説明を与えることが出来るであろう。彼等は皇族及び、その一党の人々以外には決して彼等の経験を語らなかった。そして彼等の口唇は今では永久にとざされている。<br />
<br />
<br />
　呉佩孚（ごはいふ）の裏切と軍隊の消散によって、張作霖の北京入りを容易にさせたけれども、彼はやがて敗け戦を圧倒的なる勝利に転向した人に会うことになった。彼は天津まで来てそこに二週間以上も滞在した。そしてこの間に、馮は非常に不承不承に、張を訪問した。この二人の将領（しょうりょう）は、いずれもが不快の感をお互に抱（いだ）いていた。またそれを隠そうと試みなかった。北京に到った話しに依ると、彼等はその最初の会見に於て、烈しい争論をした。その争いの主なる原因は禁闕の挿話（そうわ）であったそうである。<br />
<br />
　それはとにかくとして、明かにクリスチャン将軍は、天津に於て全く不愉快な応待を受けたのであった。彼の関係がまずくなったのは、張作霖のみではない。彼は亦、張作霖が大統領候補に指名した段祺瑞（だんきずい）からも、冷遇されたのであった。段は公然と、すでに退位条件の一方的取消しに就て、堂々たる否認（ひにん）を言明して来た。馮のクーデターに就ての彼の見解は、権力ある共和政府部内にも重きをなした。それは張勳（ちょうくん）が短命な帝権回復運動を実行した1917年に於て、馮は共和政府の救済者であったという単なる理由と、又退位条件修正の事前に相談に与っているという点からである。<br />
<br />
　その当時、段祺瑞は、その条件を廃止し、皇帝の特権を奪いとる実力を有していた。しかも、国民党一派以外には、全く、正しいものと一般に考えられていた理由に依って彼はかくの如き態度を執らなかったのである。馮が何らの権利なき問題にかかる極端な行動を執った図々しさに段が憤慨したのは当然のことである。馮玉祥は、全く気分を悪くして北京に帰来した。そして、彼がその軍事的の地位を辞して、隠退しようとしていることを宣言した。支那の軍事的或は内政上の指導者達は、彼等が実行の意志なきにかゝわらず、往々辞職引退を口外したがるものである。人民の疑問は何故馮が辞職するかと言うことではなくて、何人に或は何事に次の攻撃を彼が加え様としているかと言うことである。<br />
<br />
　一方張作霖と段祺瑞（だんきずい）が首府に到着しかかっていたことと及び、段が名義上にせよ、実際にせよ新政府の執権者となるであろうと言う評判が、北京に知られる様になった。このことは我々が知っている如く、生捕りにされた大総統から無理にひき出された偽の命令に依って、その役目についた黄郛内閣の解散を意味するのであるか否かに就て種々の想像がめぐらされた。その想像は間もなくおちついた。二人の将軍が天津から北京に到着するや否や黄郛内閣は倒れた。<br />
<br />
　新内閣の組織は全く、我々の関するところでないが、しかし、非常に満足すべき事実は、鄭孝胥（ていこうしょ）の親しい友人で且つその礼讃者であった段祺瑞が皇帝の急忠臣達に向って新政府に入る様に熱心に説いたことである。閣員の一員として、鄭孝胥は皇帝の利益を護る地位に在らしむべく、その理由のために、彼がその任命を受諾（じゅだく）するであろうと思われた。しかしすこしも躊躇（ちゅうちょ）しないで、彼はそれを拒絶した。更に段は相手をして否応（いやおう）なしに、内政総長として彼を内閣員に任命せしめ様と試みた。しかし、この運動さえも不成功に終った。<br />
<br />
　鄭孝胥は決して共和政府の官職に就こうとはしなかったし又、就こうとも考えなかった。彼はどうしても、二人の君主に仕えることが出来なかったのである。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十四章</dc:subject>
    <dc:date>2005-06-28T09:09:29+09:00</dc:date>
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    <title>第二十四章　（六）</title>
    <description>　幽居の龍

　張作霖は事実恐らく若しも禁闕の財宝が皇帝の保管から離れたならば、彼は自らを他の何人とも同じ様に財宝の適当なる保管者たらしめたであろう。しかも、後の事件は彼が未だに皇帝の安全と幸福に就てある程度の注意を行って居り、又彼等の亡命君主を彼が乱暴に...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<span style="font-size:medium;">　幽居の龍<br />
<br />
　張作霖は事実恐らく若しも禁闕の財宝が皇帝の保管から離れたならば、彼は自らを他の何人とも同じ様に財宝の適当なる保管者たらしめたであろう。しかも、後の事件は彼が未だに皇帝の安全と幸福に就てある程度の注意を行って居り、又彼等の亡命君主を彼が乱暴に取り扱ったことに就て馮玉祥に対して抱いていた彼の憤りは、ある程度まで本当の気持からであったと言うことを示した。<br />
<br />
　馮玉祥及びその共謀者が共産主義一派の中に有力な同志を有していると言うことを知ったなら、如何なる程度までその行動が刺戟されたかと言うことは恐らく決して分らないであろう。公使館に於て、次の意味の珍しい話が人々に依って語られていた。即ちある有名な共産主義者が、禁城から皇帝を放逐したことについて考えを訊ねられたときに、彼は、気味の悪い微笑と共に、次の様に答えた、「何故追放することにしたのか？我々はロシアでは如何に皇帝を取扱かったか知っている。」といった意味の話である。この小話はその出所の疑わしいことが望ましい。<br />
<br />
<br />
　殆ど6年後に至って、私は初めて、自己の知るかぎりに於ては、決して外国人の外交官の耳に達することのないような驚くべき報告を得た。私にその報告をした人物は、支那人の役人で、彼は1924年の終りには自ら北京の支配者となった政治家及び軍人の小団体の中の地位の低い一員であった。若しもこの役人に依って私に与えられた報告が正しいものであるならば、クーデターの提唱者は共和政府の大総統の地位を奪い、議会政治を廃止し、皇帝を禁闕（きんけつ）から放逐し、退位の約束を無効にすることを以て満足することはなく、反って、慎重に、公使館を強制的に占領することに依って彼等の企画を成功せしむべく、更に重要なる計画を考慮し、議論したのである。<br />
<br />
　北京に於ける市民街のこの部分は、1900年眷匪（けんぴ）に依って公使館が攻囲された時より以来、支那に於て代表された外国勢力の独占的な軍事的行政的支配を受けていた。かくの如き支配権は条約に依って譲与（じょうよ）されて来た故に、それに利害を有する諸国がこの権利の一方的な廃棄を素直（すなお）に黙認するか否かは、いかにも有り得ないことである。そればかりでなく、馮玉祥に依る、公使館の軍事的占拠（せんきょ）を遂行せんとする計画は諸国の公使館の警備兵に依って抵抗を受けることは確かであったろう。<br />
<br />
　そして、外国軍隊と支那軍隊との武装的衝突は必然的に支那に或る種の遠大な悲惨な結果を与えることであろう。恐らくこの見込は黄郛内閣の尚地位の高い閣員に依って、見落される様なことはなかったであろう。とにかく支那にとって幸（しあわ）せなことには、この計画は廃止され或は延期されたことである。<br />
<br />
　特に支那の伝統的社会的慣例と言う見地から見たる禁城に於ける皇族を妨害する行動の中の最も不愉快な特徴の一つは、それが皇太妃董康（とうこう）の葬式が行われていた午前に行われたと言うことである。彼女の死は、単に二人の生き残っている配偶者達が全く、皇帝及び皇后と共に、禁闕を去ることを拒んだ故に又、拒絶の主なる理由の一つとして彼等が亡くなった太妃の葬式に関連して、或る儀式を行わねばならぬと言うことを言明したが故に、ただそれだけで実際陰謀者達にとって、実に困惑に値する問題に遭遇させたのである。<br />
<br />
　この二人の婦人は、怖れおののく宦官に依り知らされた個人的な脅迫に威喝（いかつ）されることを拒んだ。そして彼等が自ら進んで出て行かなければ彼等は強制的に放り出されるであろうと言うことを警告されたときに、自ら却って死を選ぼうと言うことを宣言した。<br />
<br />
　この老婦人達の自殺は馮の皇族に対する取扱いが北京及びその他の都市に於て、惹き起したる嫌悪（けんお）を益々強めて行ったであろう。そして、全くたしかに、彼自身及び黄郛（こうふ）内閣々員に対して不愉快な結果を与えたことであろう。彼等が敏速にこのことを認めたことは、非常に意味深長な方法に依って表わされた。</span>
]]></content:encoded>
    <dc:subject>第二十四章</dc:subject>
    <dc:date>2005-06-27T09:18:59+09:00</dc:date>
    <dc:creator></dc:creator>
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    <title>第二十四章　（五）</title>
    <description>　幽居の龍

　支那青年の知識的指導者の１人である胡適博士の見解は同様の性質のものであった。王正廷博士への公開文の中に、彼は退位の条約は相互の約束と平和的手段とに依ってのみ修正され廃棄され得るのであると言うこと及び、黄郛内閣と馮玉祥が採った方法は支那共和国...</description>
<content:encoded><![CDATA[
　<span style="font-size:medium;"><font color="red">幽居の龍</font><br />
<br />
　支那青年の知識的指導者の１人である胡適博士の見解は同様の性質のものであった。王正廷博士への公開文の中に、彼は退位の条約は相互の約束と平和的手段とに依ってのみ修正され廃棄され得るのであると言うこと及び、黄郛内閣と馮玉祥が採った方法は支那共和国の最も香しからぬ行動として歴史上残されるであろうと言うことを主張した。<br />
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　それらの見解は皇帝退位後優待の条項と同様な約束と保証の本に満州朝廷と同様に、権利、特権を有していたが故に、蒙古及び満州諸王の代表者から、ある種の最も有力な抗議が生じたことは当然のことである。彼等は、共和政府と満州朝廷との間に結ばれた約束が片手落ちにも、共和政府に依って廃止される様な場合には、彼等自らの権利も遠からず共和政府の命令に依って彼等から、もぎ取られるかも知れないと言うことを、敏速に察知した。<br />
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　蒙古人も、西蔵人も革命には参加しなかったし満州朝廷を倒そうとする様な望みももっていなかった。夫（それ）故に、彼等自身の利害関係についての全ての問題からはなれて、彼等は、満州朝廷の皇帝退位後優待に関する条項の廃止を最も賛成し難い問題だと考えた。<br />
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　前章に於て述べたように、公使館所在地に避難した曹&#37653;（そうこん）内閣員の一人は顧維鈞（こいきん）博士であった。王正廷（おうしょうてい）が新政府の著名なる閣員であったと言う単なる事実は、北京の政界から顧（こ）博士が突然姿を消したことの理由を十分明らかに説明している。何故ならばこの二人は敵対者とまでゆかないとしてもすでに競争者として、はげしく争っていたのである。<br />
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　そして、その一方が閣員に列すると、一方の者は、失脚すると言う、避け難い、関係にあった。彼等は一つの大空の中では輝くことの出来ない二つの明星であった。私は顧維鈞（こいきん）博士とは、左程の近付きではないが、しかし、11月の中頃に我々は、共に王（おう）、憑（ひょう）一派の中に有害な行動をとった仲間として糾弾（きゅうだん）された。<br />
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　同月15日世界万報という支那紙は首府に在って不安を生ぜしめている数多い虚偽の噂の原因を探らんとして、その探索の手が二人の悪党即ち顧維鈞（こいきん）博士及び私自身にまで及んで居り、或は某英字紙及び、英国新聞通信社にまで及んでいると言うことを報道した。前述の最近の事変は顧（こ）博士の飯椀である外交総長の職をぶちこわしてしまい、且つ、溥儀（ふぎ）の英国人教師である壮士敦（そうしとん）（ジョンストン）に多　大の不満足を与えた、それ故に、この二人は共にその頭上に新たに建てられた制度を覆えさんとする見解を抱いた。<br />
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　そして毎日公使館所在地に在るワゴン・リッツ・ホテルの一室で秘密の会合を行っていた。そして、「北京天津タイムス」の代表者並びに英国新聞通信社の代表者と共同して、陰謀を仕組んでいた。その後者の二人は呉佩孚（ごはいふ）の同盟者である地方官齊燮元（せいばんげん）から莫大なる贈賄を受けていたと述べられている。私は件の秘密会合が、私が禁闕（きんけつ）の中につれていたとして告発された娘と同じく神秘的であったことをさして言う必要はない。<br />
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　私は憑が宮城を攻囲し、皇帝を放逐（ほうちく）したことについての最初の権威ある報告が、英国の仲介に依って満州に於ける張作霖（ちょうさくりん）にまで到達したということを、信ずる理由をもっている。それは英国人の目撃者をして、その人は屡々張作霖（ちょうさくりん）の悪い気質を見て来たが、しかし彼は未だにこの記憶すべき事件に於て将領を震動させたかくの如き怒の爆発を見たことがなかったと言うことを述べさせたが如き結果を惹き起こした。勿論、彼は憑（ひょう）の北京攻囲にも呉佩孚の裏切にも反対しなかった。<br />
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　張（ちょう）の勝利は、その裏切に依ってかち獲られたもので、彼は疑もなく、共犯者の一人であった。しかし禁城を攻囲し、退位の条約を廃棄するに当って憑（ひょう）及びその一味は、それを彼等自身の発議い依って行ったと同時に、何ら自らの考慮をば払わずに行ったのであった。この事はたとえ彼が彼等の行動を根本的には是認したとは言え、彼が行わなかった許し難い罪であったであろう。彼は憑（ひょう）が呉佩孚に対して都合の良い裏切りをしてくれたことに対して如何なる感謝を感じたとしても、それは禁闕（きんけつ）の神聖さを涜（けが）したと言う憤りのために消されてしまった。<br />
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　後になって、ある支那人の皮肉屋が私の聞えるところで、彼の怒りは大部分、皇帝の神聖を涜（けが）した奴は亦、同じ様に皇帝の財宝貯蔵室を掠奪（りゃくだつ）した奴にちがいないと言う彼の考えに依るのであると言った。</span>
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    <dc:subject>第二十四章</dc:subject>
    <dc:date>2005-06-26T21:16:23+09:00</dc:date>
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