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禁苑の黎明−Twilight in the forbidden city

岩波書店から再版された紫禁城の黄昏(抄約・不完全版)の完訳である
「禁苑の黎明」 原題:"TWILIGHT IN THE FORBIDDEN CITY"
by Reginald F. Johnston を WEB上に復刻していきます。
表紙
表紙
| - | 00:29 | comments(0) | trackbacks(4) |
WEB復刻に至ったいきさつ
岩波書店から再版された紫禁城の黄昏(不完全版)の完訳である
「禁苑の黎明」
 原題:Reginald F. Johnston "TWILIGHT IN THE FORBIDDEN CITY" 1934
が見つかり、西山さんから寄贈していただきました。

 幸いにして昭和9年発行で、著者の没後より50年経っていますので今回
著作権の問題が無いことより、このサイトで閲覧できるようにしました。現物はかなり傷んでいるので、通常のPPCコピーには耐えられませんので、一からタイプすることにしました。日々更新するのをお待ちいただくことになり、完全になるのが何時になるかはお約束できませんがご了承ください。

 なお、旧仮名遣いを現代仮名遣いにしましたのは、なるべく多くの方に読んで戴くことの方が大切であると判断したからです。

 この本一冊で東京裁判をひっくり返せるとか、後日の再版に関して岩波が
意図的に歯抜けで出版したとか・・・曰く因縁つきの本です。

 件の本に関しては、下記の渡部先生の文に詳しく説明されています。


?引用ここから?

渡部昇一「満洲は日本の侵略ではない」 「WILL」創刊号より

◆天下の名著『紫禁城の黄昏』
戦後日本における中国の問題は、満洲国にたいする見方、すなわち「満洲国は日本が中国を侵略してつくった」という見方ですが、そこに端を発していると思います。

そもそも日本の国際連盟脱退も満洲問題が原因です。満洲問題自体が起こったのは、国際連盟が満洲国という国を理解でぎなかったことによるものであり、とくにアメリカは理解しようとさえもしませんでした。イギリス人であるリットン卿は理解できないまでも、満洲事変は侵略とは簡単に言えないと言っているんです。

アメリカなどは、日本がシナを侵略しているという立場をとりましたが、満洲に関していちばん正しい見方をしていたのは、イギリス人のレジナルド・ジョンストン卿です。彼は溥儀の教師であり、のちに香港大学の教授やロンドン大学の東方研究所所長にもなった人物で、当時第一級のシナ学者です。

清朝にずっと仕えていたので、内部事情にも非常に精通していました。満洲国建国の経緯や溥儀自身の意思も彼はよく知っていました。ですから溥儀が父祖の地である満洲に戻って、そこの皇帝になったことをとても喜んだ。そうして『紫禁城の黄昏』という天下の名著を書いたんです。

この本は東京裁判のときに、日本の弁護団が証拠として使おうと、証拠物件申請をしたんですが却下されました。理由は至極簡単で、この本がジョンストンという学者であり第一級の証言者が著した、ウソ偽りのない資料であるゆえに、証拠採用してしまえば東京裁判自体が成り立たないからです。

『紫禁城の黄昏』は戦後長らく世界中で再出版されませんでした。映画「ラスト・エンペラー」がヒットしたので、岩波書店が岩波文庫として刊行したのです。ところが、この文庫ではシナという国のあり方を説明した1章から10章までがまったく削除されて11章からはじまっている。しかも序文でも満洲国に関係ある人物が登場すると、1行でも2行でも虫が喰ったように削除するという、信じられないことをやっている。

満洲のことを中国東北部と称するのは、中国政府の侵略史観のあらわれです。満洲国は、満洲という土地に、満洲族一番の直系の王族が戻ってきて建てた国です。満洲というのは万里の長城の北にあります。それは、万里の長城から北はシナでないという意味なんです。
そのことを考えずに、満洲は中国の一部だというのは、チベットや新彊が中国だというのと同じ思想で、シナ人の単なる侵略思想です。

満洲は明らかに清朝政府(満洲民族の帝国)の復活です。満洲人の満洲人による満洲人のための満洲国を作りたかったんだけれども、それをやる能力がないから日本が内面指導したんです。大臣はすべて満洲人か、清朝の遺臣でした。首相だった張景恵は、戦後もずっと日本にたいして友好的な態度をとっていました。

残念ながら、いま満州族には国家を再建するほどの人間は残っていないでしょう。日本人もせっかく国をつくるのを手助けしたのにと、残念に思っていい。香山健一氏(学習院大学教授。故人)から聞きましたが、満洲人はいまでも涙を流すそうです。「われわれにも自分たちの国があったんだ」と。しかしもう戻らないでしょう。満洲国の血筋は消されてしまったわけですから。これこそ一種の民族浄化です。

今後、日本人、とくに政治家のような中国関連の仕事をやる人たちは、満洲国は日本が侵略したのではなかった、という認識をまずもって持たなくてはならないと私は思います。シナ人にたいする罪悪感を抱えたままでは、いつまで経っても何も変わりません。
?引用終わり?

注)上記引用は雑誌「WILL」からの直接のテキスト起こしではなく、
下記リンク先よりその一部分をコピーアンドペーストさせていただいたものです。
http://members.jcom.home.ne.jp/t-masami/zakki-04-7-12/hp-04-12-10.html

| いきさつ | 21:44 | comments(13) | trackbacks(6) |
 序:永井柳太郎 

余自らの十年の知己である荒木武行君が、この程、満州国皇帝陛下の前師伝として十数年の長きに亘って奉仕せる英人、名誉法学博士レヂナルド・エフ・ジョンストン卿の著書『禁苑の黎明』を訳出するに当って、余にその序文を求められた。もとより余は今、多端なる国務に携わる身であり、従てこの種の求めに対しては、大抵御断りしているのであるが、荒木君の求めに際しては即座に諾と答えたのである。その理由とするところは主として次の二点にもとづく。

 一は、原著『禁苑の黎明』が著者みづから禁城の生活に於いて親しく経験し、見聞し、かつこれを確めたる正確な素材により、大清朝末期の薄暮より、新国家建設の黎明、康徳皇帝陛下御登極にいたる間の大小巨細の事実を至公至明に叙述していることである。従って、その内容がひろく我が国民によって読まるゝならば、友邦満州国成生の過程は、凱切、正鵠に把握されて、幾多の妄説、謬見を一掃しつくすに足るの良著たるが故である。二つには、訳者荒木武行君が、独力よく日満経済協会を経営して、雑誌『日満特報』を発行するのほか、両帝国経済の健全なる発達のために真摯なる活動を続けらるゝ士たるが故である。すなはち、本書は著者にその人を得、内容に正確有益にして、訳者また至適の材を得たる点において、余は言下に本書の推薦を快諾したのである。

 いまや満州帝国は、国内の治安全く快復され、経済建設は駸々として進み、三千万民衆の輿望のうちに近代国家としての体様ほゞ全からんとしつゝある。王道楽土の実は、日に月にあがり列国驚異のうちに大業は遂げられんとしつゝある。かくてついに中米サルバドル共和国は、列国に先駆して満州国承認の声明を発するにいたった。友邦の前途のために、まことに輝かしき多幸とせねばならぬ。

 この時に当って、本著『禁苑の黎明』がわが朝野の有識者に繙かるゝこととなったのは、日満両国帝国民衆の互助協力の緊密を更に数歩前進せしめるものとして、余の衷心より欣懐するところである。とくに我々は本著によって、満州帝国康徳皇帝陛下の比類なき御英明を具さに拝するとともに、三千万民衆がいかに陛下の御徳を慕いまつるの厚きかの実情を知るべく、又進んではわが帝国が、新国家の建設前後を通じて、終始、公明なる国際正義に立脚して行動したること、満州事変の勃発が全く国家既得権益の自衛に出発したるに外ならざること、リットン報告書中に見らるゝ幾多の歴史的認識の誤謬の指摘など、読者の啓発さるゝところのものは蓋し数うるに暇ないものがあることを信ずる。

 ここに本序を結ぶに当たり、謹んで康徳皇帝陛下の万歳を祈り奉る。

 昭和九年六月一日
                   永井柳太郎

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| | 12:08 | comments(2) | trackbacks(0) |
康徳皇帝の序文
溥儀の序文300*300 

康徳皇帝の序文(翻訳)

 甲子十月、醇親王府を去って後、予は日本公使館に難を避けた。予の師伝ジョンストンが主として手段をつくして、予を危険から救ってくれた。のみならず第一に日本公使芳澤氏に会見し、その会見後、芳澤氏をして予を鄭重に招ずるように計らってくれたのも彼であった。かつ芳澤氏は予に兵乱より難を避ける場所として、日本公使館の使用を許した。乙丑、予は更に居を天津に移した。それは今より七年前のことであり、ジョンストンは十三年間、北京に在っても、後に天津に在っても、終始予の慰友であった。その危急の秋にあって、その災厄と困難とについて、彼以上に精密な知識を有っている人物はいない。彼はそれ故に、正に筆をとって、彼自ら活躍した事件の記録をつくることに最も適している人物である。当時の悲惨な状態と無秩序とを回顧する人々にとって、その自らの経験と観察に基づく真の記録は、実に価値多きものであるであろう。作家としても、人物の上からも、ジョンストンは我が中国の最も優れた学者に劣らない人物である。彼の著述の出版された暁には、それが社会から高評をうけることを信じて止まぬ。

辛未九年

宣統御印    鄭孝胥氏筆
| | 17:17 | comments(3) | trackbacks(0) |
序論 (一)

 原著者序:ジョンストン

 1901年7月25日午前11時頃、香港に支那貴族の用いる高貴な絹の衣裳を着て、その帽子に最も地位の高い支那官吏の用いる赤いボタンをつけた一人のおとなしい少年らしい人物が現れた。桟橋で彼と彼の小さな従者は、英国官吏の一団と会見した。その中にこの書の著者も入っていたが、著者は彼を地方自治のために、英国の領地に招じたのである。街路に堵列する思慮深い支那人以外の物見高い群集を恭しく遠方からおさえて置くことが、その任務である警察の護衛兵に伴われて、四人の赤い衣裳の驕夫が彼を静かに水際から運んで行った。十五分の後、その驕は政庁の玄関の前におろされた。そこに於いて彼は直轄殖民地長官に依り歓待され迎えられたのである。この高貴の訪問者は支那の皇帝の弟、帝国に在っては高貴なる皇族醇親王殿下であった。そしてその主人役はエドワード七世陛下の香港に於ける代表者であるサー・ヘンリー・ブレーク閣下であった。

 この事件は記憶すべきものの一つである。何故なら支那皇族が英国の領地へお越しになった最初だからである。しかし彼の来訪は彼が受けることを快しとさえするならば、当然彼に対して行われるであろう英国側の形式的な儀礼の大部分がなくなされていた。英国の軍人から敬礼を受けることも、砲台から礼砲を受けることもなく、彼はドイツ船バイエルン号で港に入った。彼はこの上陸の儀仗兵をすらお受けにならなかった。これは彼自らの希望に依るところであった。何故なら彼は陳謝の使節として旅行していたからで、その任務が成しとげられない間は、彼は支那の皇族に相当する儀礼を受けることは好まなかった。

 醇親王殿下の香港御入港の一年と三十五日前ドイツの支那駐剳全権公使が北京の街上で「拳匪」に依って殺害された。1900年6月20日フォン・ケッテレル男爵が殺害されたという報道は世界中に響いた。何故なら、それは公使館の攻囲として歴史に名高い悲しむべき事件の端緒をなしたからである。そして今や勝利者の連合国に依って屈辱の支那朝廷に課せられた平和条約の一つに従って、一人の満州皇族が支那人の眼には、二流の属国の王が、精々のところで、最も悪くいえば無礼な野蛮なる国としか見えなかったドイツに、天子の遺憾の意と申訳の御言葉を述べる為に、支那から行く途上にあった。

 私がその当時記した、そして今ではダウニング街に於ける書物の中に、具体的に記述されている記録の中に、以下の数言があった。即ち、「醇親王殿下は支那朝廷の習慣に従えば、自分は王位に即く候補者となることは出来なかったけれども、若しも彼に子息があったなら、その子は最後には王位に即くことが出来るということは、不可能なことではなかった。このことは確かに殿下をして、今後の支那政局に非常に重要な原動力たらしめるであろう。この意見は正しく幸運が醇親王殿下の手中にあることを、前以て示していた。」

 彼がドイツから帰朝して後、皇太后は彼を彼女の信頼する友人で、かつ同族の総督兼最高顧問官である栄禄の娘と結婚させた。1906年の春、彼の最初の子息が生れた。そしてその本名を溥儀という。この子息は支那に於ける清朝(満州朝廷)の最後の君主となった。そして一方醇親王は自らその子息の摂政として、不安な乱れた数年の間、支那帝国の支配者となった。そして一方醇親王が去って後、間もなく他の皇族が屈辱なしの使節として香港を通過した。彼の場合は、それ故、支那の王室の威厳を無視することはなかった。これはエドワード王の戴冠式に支那君主を代表して、英国に行く途上にあった載振殿下であった。この二回の機会に、私はじめて後になって他の外国人よりも、より精しく親しく、私が彼等を知る様になったその満州朝廷の名士と交際する様になったのである。

以下、背景着色分は岩波文庫版にて削除されている部分
 
しかし私はすでにその運命が亦満州朝廷の一族となって居り、上記の皇族のどれよりも、はるかに名誉ある地位を、この国の歴代史上に占めるであろうと思われる人物と近付きになっていた。私は最初、1898年のクリスマスの日マクダラから来た東方の弟子として香港に到着した。劃時代的な幾多の事件がその年の間に支那に起った。これらの事件の指導者が、避難者として香港に着いたばかりだった。私が当時支那人から最も讃えられ、且つ最も嫌われていた康有為に最初会見したのは政庁の中に於てである。
| 原著者序論 | 09:21 | comments(8) | trackbacks(0) |
序論 (二)
原著者序論:ジョンストン  

以下、背景着色分は岩波文庫版にて削除されている部分
 
彼は国民に信頼され敬意を受ける様な国家を作ることを切望していた、忠義心と、朝廷に対する忠誠とを兼ね有している人人からは讃えられ、且つ尊敬さえも受けていたが、反面、支那は西方の野蛮国から学ぶべき何物もないと言うことと、支那の皇帝は王中の王者であると信じている面々からは嫌われ、且つ恐れられていた。私がはじめて偉大な改革者であり、近代の賢人であるこの人物に面接したとき、彼は皇太后と、その寵臣や欺瞞者の激怒と、憎しみの犠牲となった不幸な六人の殉難者の喪に服していた。六人の中には彼の弟もいた。

 生死、いづれにしても、彼を捕えることに対して、莫大な懸賞が北京の中央政府からも、地方政庁からも提供された。香港に在って、英国政府から厳重に監視されていたけれども、彼は絶えず暗殺の危険にさらされていた。彼が当時、極東を訪問中であったチャルス・ベルス・フォード卿を訪ね、彼と興味ある会談をなしたときも。巡警の警戒に保護されていた。そのときの談話はチャルス卿の旅行や印象の記述の中に記録されている。香港に小時滞在して後、彼はシンガポールに行って、最後にヨーロッパと米国に行ったが、絶えず懸賞付きで、常に帝国政府の、スパイのために生命の危険に出会っていた。老皇太后の生きている限りは、彼は故国のない放浪者であったが、後に故国に帰朝してから後も生涯、放浪しつづけていた。

 私の本書を著わす主要な目的は、私が満州朝廷の禁苑を占有していた薄明の時代即ち1912年の春に於ける所謂革命に依る共和国の建設と溥儀皇帝が1924年の11月11日にクリスチャンゼネラル(馮玉?)とその仲間のために帝位から放遂された、その間三十年(ママ・注:十三)の経過について若干の説明をなすことである。しかし、支那の近世政治史の知識をもたない人々に対して物語を、より明かにするためには、薄明に続く日光即ちすでに雷雲に暗くされた日光について、又薄明(前期)の騒しい夜について、説明をなす必要があると言うことを発見した。日没の薄明と同様に、暁の薄明がある。

 そしてこの書の中に記述された薄明を消滅してしまう夜に、いつか晴やかな太陽の出る新しい日が続くであろう。このことは、支那人を尊敬する人々が激しく希望し、且つ確乎として信ずるところのものである。我々の多くは我々が他の者にとっては、真暗の様に見える天の一角に新たなる暁のはじめの徴光を見つけることが出来ることを、すでに確心している。我々が早速次章から知ることは、唯夕方の薄明であって、暁の黎明ではない。それ故に私の記述は、1898年に康有為に依って提出された改革案の包括的プログラムを成就するための、光緒皇帝の深遠で望み難い計画にはじまり、1931年の末つ方、満州朝廷の最後の君主が、その祖先発祥の地に帰り、数年の間、世界政局の問題の中心となった満州地方の急変を以って終る三十四年間に限られねばならぬ。


文字の色を変えて同一部分岩波訳
 私がこの著作を書こうとする主な目的は、私が黄昏の時代と呼んだ、廃朝後の満州朝廷を描くことにあった。それは一九一二年初のいわゆる共和国の創設の時期から、皇帝溥儀(ないしはその元号によって宣統帝とよばれる)が「クリスチャンゼネラル」(馮玉?)とその同盟者によって紫禁城を追われる一九二四年十一月までの十三年に該当する。
 しかしながら、最近の中国の政治史に詳しくない読者にこの物語をよりよく理解していただくために、私はこの黄昏に先立つ陽光の日々についても語ることが必要であろうと考えた。
 ?その太陽の光はすでに雷雲に覆われているのではあるが?また、黄昏に続く嵐をはらんだ夜についても言及するつもりである。
 トワイライトという言葉には、黄昏の光だけではなく暁の光という意味もふくまれている。この物語の中で述べられている黄昏のほの暗い光は、夜の闇にのみこまれてしまったが、それは時の経過とともに再び、太陽の光に輝く新たな日を迎えることになろう。
 それこそは中国人を敬愛し、尊敬するすべての人々(ひとたび中国人を知るならば、どうして敬愛し、尊敬せずにいられよう?)の熱烈な希望であり、固く信ずるところなのである。
 われわれの多くはすでに、他の人々がまだ暗黒しか認めていない天のまさにその一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。しかし、以下の各章でわれわれが関わろうとしているのは、黄昏の兆候であって、暁の曙光ではない。
 すなわち私の著述は、不運な皇帝・徳宗(光緒帝)がおこなった高邁ではあるが実現の望みの薄い改革の試みが失敗におわった一八九八年にはじまり、中国における満州王朝の最後の皇帝が、父祖の地である満州に帰還する一九三一年の末、および国際政治の台風の目となったその翌年の満州国の出現までの三十四年間の物語なのである。

以上、岩波文庫青?448?1「紫禁城の黄昏」より
該当部分抜書き(茶色文字部分責任:web engineer)

そして、この後岩波文庫版「紫禁城の黄昏」では
訳者によって「主観的な色彩の強い前史部分」として

 第一章 一八九八年の変法運動
 第二章 変法運動の挫折
 第三章 反動と義和団運動
 第四章 光緒帝の晩年
 第五章 西太后
 第六章 一九一一年の革命
 第七章 大清皇帝の退位条件
 第八章 大清と洪憲朝
 第九章 張勲と王政復古(復辞)
 第十章 松樹老人(張勲)の自伝

までが、ごっそりと削られています。
そして、 第十六章 王政復古派の希望と夢も。
左の岩波文庫版「紫禁城の黄昏」のレビュー欄に訳者のあとがきよりその理由を述べている部分を一部抜粋しています。

(この部分文責:web engineer)

| 原著者序論 | 17:20 | comments(20) | trackbacks(0) |
訳者の言葉
訳者の言葉:荒木武行

 風の烈しい昭和9年2月27日、自分は新京に下車した。刺すような寒気を感じ乍らホテルへ着くまでの自動車の中から、市街をのぞいた。建国大典を控えた褐色の街は何となく生々としていた。

 翌28日はヤマトホテルで満州国協和会全国連合協議会を傍聴した。軍楽隊の吹奏する満州国々歌までが何となく新らしい生命に溢れているような気がした。連合会は各地代表を網羅し、何れも心から建国を希望し、祝福した。その趣意書には
 
満州国の建設さるゝや、建国精神の普及と民族協和の実現とを其の使命とせる我満州国協和会は、上に執政を名誉総裁に戴き、国家公認の唯一思想建国団体として、其の綱領の実践に邁進し、国家施政の暢達に不断の努力を傾倒し、今や三十万余の国民中堅の会員を擁し建国第三年を迎えんとするに至れり。

 恭しく惟みるに、我執政は天資英邁にして仁徳全土を蔽い、其の恩沢は万民を潤し、王道の善政は日に普く、民心の尊敬と信頼とは茲にに期せずして天意に顕れ、建国第三の紀念日を卜して、国を大満州帝国と号し、第一代皇帝の位に即かれんとす、而も我国体の制定は国家百年の大計を鮮明ならしむるものにして、実に建国の理想と其使命を高揚し、国礎を愈々強固ならしめ、以て東洋永遠の平和を劃さんとする所以のものなり。

 然るに、此の宏大にして深遠なる帝政実施の真意を誤り、稍もすれば或種の疑惑を抱き、建国の大理想に変革あるかの如くに推思し、甚しきに至っては清朝の復辟と做して天意に悖るものがあるが如きは真に遺憾に堪えざるところなり。

 我が建国の精神は炳として宇内に輝き、国体制定に依りて寸毫の弛きあるべきものに非ず、寧ろ光輝ある建国の歴史に更に一層の光彩を添え、世界史上稀に見る理想的独立国家の内容を整えるものにして、東洋文化の再建と世界和平の大業とは茲に始めて興るものと謂うべし。

 本会は斯かる誤れる思想を是正し、本会本来の使命に鑑み、帝政実施の真意義を提示し、其の責務を敢行すると共に、又一面我が名誉総裁たる執政の帝位登極の御盛典に当り、聊か我等会員一統の微衷を披瀝して慶祝の意を表し、而して堅く国民としての盡忠報国の宣誓を為すべく、茲に全国連合協議会を開催せんとするものなり。
     大同三年二月二十八日

 と、云って居る。翌日は御大典である。自分も亦、この盛儀を遥拝するの光栄に浴した。

 数日の後、登極の式場跡たる天壇のほとりを拝観した。涯知れぬ広野である。空と平原と、遥か左手には落葉樹の林立した一群を見るだけで、あとは目を遮る何ものもないほどである。

 新興アジヤの聖地!

 そう云った感激が胸を衝いた。自分は、烈風の下で、暫く四囲の風影を見た。そしていろいろの感激を新にした。

 滞京中に白井秘書官の斡旋で鄭国務総理にお目にかゝることが出来た。総理は血色のいゝ、若い者のような元気さで、握手など青年のように力強いものがあった。そして談論風発と云った趣きがあった。自分は率直に満州国の将来に就て語った。総理は明快に答えた。

 新京から奉天へ。奉天から一路東京へ。自分の胸は満州国の建国印象で燃えていた。如何に之を表現すべきか、表現したい心持が一杯になっていた。たまたまジョンストン博士の新著を手にして『先づこれだ』と、思った。博士に翻訳刊行の許可依頼状を出すと共に大急ぎで全訳にとりかゝった。何分、多忙な生活なので思うにまかせぬものがあり、訳文等にも不備の点はすくなくないが、この書が何を語ろうか、とする大意丈けは判然としよう、何れ改訂版を作る予定であるが兎に角、この感激を日満両国民大衆に捧げる。而して、本書の刊行に当って協力完成を急いだ親友長島八郎、安田清臣両兄の芳情に対しては特に明記して永遠の記念であり感謝としたい。

 昭和九年七月上旬
             日満経済協会編集室にて
                荒木 武行
| 訳者の言葉 | 11:23 | comments(2) | trackbacks(0) |