2005.02.10 Thursday
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禁苑の黎明−Twilight in the forbidden city岩波書店から再版された紫禁城の黄昏(抄約・不完全版)の完訳である
「禁苑の黎明」 原題:"TWILIGHT IN THE FORBIDDEN CITY" by Reginald F. Johnston を WEB上に復刻していきます。 2005.02.10 Thursday
WEB復刻に至ったいきさつ
岩波書店から再版された紫禁城の黄昏(不完全版)の完訳である
「禁苑の黎明」 原題:Reginald F. Johnston "TWILIGHT IN THE FORBIDDEN CITY" 1934 が見つかり、西山さんから寄贈していただきました。 幸いにして昭和9年発行で、著者の没後より50年経っていますので今回 著作権の問題が無いことより、このサイトで閲覧できるようにしました。現物はかなり傷んでいるので、通常のPPCコピーには耐えられませんので、一からタイプすることにしました。日々更新するのをお待ちいただくことになり、完全になるのが何時になるかはお約束できませんがご了承ください。 なお、旧仮名遣いを現代仮名遣いにしましたのは、なるべく多くの方に読んで戴くことの方が大切であると判断したからです。 この本一冊で東京裁判をひっくり返せるとか、後日の再版に関して岩波が 意図的に歯抜けで出版したとか・・・曰く因縁つきの本です。 件の本に関しては、下記の渡部先生の文に詳しく説明されています。 ?引用ここから? 渡部昇一「満洲は日本の侵略ではない」 「WILL」創刊号より?引用終わり? 注)上記引用は雑誌「WILL」からの直接のテキスト起こしではなく、 下記リンク先よりその一部分をコピーアンドペーストさせていただいたものです。 http://members.jcom.home.ne.jp/t-masami/zakki-04-7-12/hp-04-12-10.html 2005.02.11 Friday
序
序:永井柳太郎
余自らの十年の知己である荒木武行君が、この程、満州国皇帝陛下の前師伝として十数年の長きに亘って奉仕せる英人、名誉法学博士レヂナルド・エフ・ジョンストン卿の著書『禁苑の黎明』を訳出するに当って、余にその序文を求められた。もとより余は今、多端なる国務に携わる身であり、従てこの種の求めに対しては、大抵御断りしているのであるが、荒木君の求めに際しては即座に諾と答えたのである。その理由とするところは主として次の二点にもとづく。 一は、原著『禁苑の黎明』が著者みづから禁城の生活に於いて親しく経験し、見聞し、かつこれを確めたる正確な素材により、大清朝末期の薄暮より、新国家建設の黎明、康徳皇帝陛下御登極にいたる間の大小巨細の事実を至公至明に叙述していることである。従って、その内容がひろく我が国民によって読まるゝならば、友邦満州国成生の過程は、凱切、正鵠に把握されて、幾多の妄説、謬見を一掃しつくすに足るの良著たるが故である。二つには、訳者荒木武行君が、独力よく日満経済協会を経営して、雑誌『日満特報』を発行するのほか、両帝国経済の健全なる発達のために真摯なる活動を続けらるゝ士たるが故である。すなはち、本書は著者にその人を得、内容に正確有益にして、訳者また至適の材を得たる点において、余は言下に本書の推薦を快諾したのである。 いまや満州帝国は、国内の治安全く快復され、経済建設は駸々として進み、三千万民衆の輿望のうちに近代国家としての体様ほゞ全からんとしつゝある。王道楽土の実は、日に月にあがり列国驚異のうちに大業は遂げられんとしつゝある。かくてついに中米サルバドル共和国は、列国に先駆して満州国承認の声明を発するにいたった。友邦の前途のために、まことに輝かしき多幸とせねばならぬ。 この時に当って、本著『禁苑の黎明』がわが朝野の有識者に繙かるゝこととなったのは、日満両国帝国民衆の互助協力の緊密を更に数歩前進せしめるものとして、余の衷心より欣懐するところである。とくに我々は本著によって、満州帝国康徳皇帝陛下の比類なき御英明を具さに拝するとともに、三千万民衆がいかに陛下の御徳を慕いまつるの厚きかの実情を知るべく、又進んではわが帝国が、新国家の建設前後を通じて、終始、公明なる国際正義に立脚して行動したること、満州事変の勃発が全く国家既得権益の自衛に出発したるに外ならざること、リットン報告書中に見らるゝ幾多の歴史的認識の誤謬の指摘など、読者の啓発さるゝところのものは蓋し数うるに暇ないものがあることを信ずる。 ここに本序を結ぶに当たり、謹んで康徳皇帝陛下の万歳を祈り奉る。 昭和九年六月一日 永井柳太郎
2005.02.11 Friday
康徳皇帝の序文
康徳皇帝の序文(翻訳) 甲子十月、醇親王府を去って後、予は日本公使館に難を避けた。予の師伝ジョンストンが主として手段をつくして、予を危険から救ってくれた。のみならず第一に日本公使芳澤氏に会見し、その会見後、芳澤氏をして予を鄭重に招ずるように計らってくれたのも彼であった。かつ芳澤氏は予に兵乱より難を避ける場所として、日本公使館の使用を許した。乙丑、予は更に居を天津に移した。それは今より七年前のことであり、ジョンストンは十三年間、北京に在っても、後に天津に在っても、終始予の慰友であった。その危急の秋にあって、その災厄と困難とについて、彼以上に精密な知識を有っている人物はいない。彼はそれ故に、正に筆をとって、彼自ら活躍した事件の記録をつくることに最も適している人物である。当時の悲惨な状態と無秩序とを回顧する人々にとって、その自らの経験と観察に基づく真の記録は、実に価値多きものであるであろう。作家としても、人物の上からも、ジョンストンは我が中国の最も優れた学者に劣らない人物である。彼の著述の出版された暁には、それが社会から高評をうけることを信じて止まぬ。 辛未九年 宣統御印 鄭孝胥氏筆 2005.02.12 Saturday
序論 (一)
原著者序:ジョンストン 1901年7月25日午前11時頃、香港に支那貴族の用いる高貴な絹の衣裳を着て、その帽子に最も地位の高い支那官吏の用いる赤いボタンをつけた一人のおとなしい少年らしい人物が現れた。桟橋で彼と彼の小さな従者は、英国官吏の一団と会見した。その中にこの書の著者も入っていたが、著者は彼を地方自治のために、英国の領地に招じたのである。街路に堵列する思慮深い支那人以外の物見高い群集を恭しく遠方からおさえて置くことが、その任務である警察の護衛兵に伴われて、四人の赤い衣裳の驕夫が彼を静かに水際から運んで行った。十五分の後、その驕は政庁の玄関の前におろされた。そこに於いて彼は直轄殖民地長官に依り歓待され迎えられたのである。この高貴の訪問者は支那の皇帝の弟、帝国に在っては高貴なる皇族醇親王殿下であった。そしてその主人役はエドワード七世陛下の香港に於ける代表者であるサー・ヘンリー・ブレーク閣下であった。 この事件は記憶すべきものの一つである。何故なら支那皇族が英国の領地へお越しになった最初だからである。しかし彼の来訪は彼が受けることを快しとさえするならば、当然彼に対して行われるであろう英国側の形式的な儀礼の大部分がなくなされていた。英国の軍人から敬礼を受けることも、砲台から礼砲を受けることもなく、彼はドイツ船バイエルン号で港に入った。彼はこの上陸の儀仗兵をすらお受けにならなかった。これは彼自らの希望に依るところであった。何故なら彼は陳謝の使節として旅行していたからで、その任務が成しとげられない間は、彼は支那の皇族に相当する儀礼を受けることは好まなかった。 醇親王殿下の香港御入港の一年と三十五日前ドイツの支那駐剳全権公使が北京の街上で「拳匪」に依って殺害された。1900年6月20日フォン・ケッテレル男爵が殺害されたという報道は世界中に響いた。何故なら、それは公使館の攻囲として歴史に名高い悲しむべき事件の端緒をなしたからである。そして今や勝利者の連合国に依って屈辱の支那朝廷に課せられた平和条約の一つに従って、一人の満州皇族が支那人の眼には、二流の属国の王が、精々のところで、最も悪くいえば無礼な野蛮なる国としか見えなかったドイツに、天子の遺憾の意と申訳の御言葉を述べる為に、支那から行く途上にあった。 私がその当時記した、そして今ではダウニング街に於ける書物の中に、具体的に記述されている記録の中に、以下の数言があった。即ち、「醇親王殿下は支那朝廷の習慣に従えば、自分は王位に即く候補者となることは出来なかったけれども、若しも彼に子息があったなら、その子は最後には王位に即くことが出来るということは、不可能なことではなかった。このことは確かに殿下をして、今後の支那政局に非常に重要な原動力たらしめるであろう。この意見は正しく幸運が醇親王殿下の手中にあることを、前以て示していた。」 彼がドイツから帰朝して後、皇太后は彼を彼女の信頼する友人で、かつ同族の総督兼最高顧問官である栄禄の娘と結婚させた。1906年の春、彼の最初の子息が生れた。そしてその本名を溥儀という。この子息は支那に於ける清朝(満州朝廷)の最後の君主となった。そして一方醇親王は自らその子息の摂政として、不安な乱れた数年の間、支那帝国の支配者となった。そして一方醇親王が去って後、間もなく他の皇族が屈辱なしの使節として香港を通過した。彼の場合は、それ故、支那の王室の威厳を無視することはなかった。これはエドワード王の戴冠式に支那君主を代表して、英国に行く途上にあった載振殿下であった。この二回の機会に、私はじめて後になって他の外国人よりも、より精しく親しく、私が彼等を知る様になったその満州朝廷の名士と交際する様になったのである。 以下、背景着色分は岩波文庫版にて削除されている部分 しかし私はすでにその運命が亦満州朝廷の一族となって居り、上記の皇族のどれよりも、はるかに名誉ある地位を、この国の歴代史上に占めるであろうと思われる人物と近付きになっていた。私は最初、1898年のクリスマスの日マクダラから来た東方の弟子として香港に到着した。劃時代的な幾多の事件がその年の間に支那に起った。これらの事件の指導者が、避難者として香港に着いたばかりだった。私が当時支那人から最も讃えられ、且つ最も嫌われていた康有為に最初会見したのは政庁の中に於てである。 2005.02.12 Saturday
序論 (二)
原著者序論:ジョンストン
以下、背景着色分は岩波文庫版にて削除されている部分 彼は国民に信頼され敬意を受ける様な国家を作ることを切望していた、忠義心と、朝廷に対する忠誠とを兼ね有している人人からは讃えられ、且つ尊敬さえも受けていたが、反面、支那は西方の野蛮国から学ぶべき何物もないと言うことと、支那の皇帝は王中の王者であると信じている面々からは嫌われ、且つ恐れられていた。私がはじめて偉大な改革者であり、近代の賢人であるこの人物に面接したとき、彼は皇太后と、その寵臣や欺瞞者の激怒と、憎しみの犠牲となった不幸な六人の殉難者の喪に服していた。六人の中には彼の弟もいた。 私の本書を著わす主要な目的は、私が満州朝廷の禁苑を占有していた薄明の時代即ち1912年の春に於ける所謂革命に依る共和国の建設と溥儀皇帝が1924年の11月11日にクリスチャンゼネラル(馮玉?)とその仲間のために帝位から放遂された、その間三十年(ママ・注:十三)の経過について若干の説明をなすことである。しかし、支那の近世政治史の知識をもたない人々に対して物語を、より明かにするためには、薄明に続く日光即ちすでに雷雲に暗くされた日光について、又薄明(前期)の騒しい夜について、説明をなす必要があると言うことを発見した。日没の薄明と同様に、暁の薄明がある。 そしてこの書の中に記述された薄明を消滅してしまう夜に、いつか晴やかな太陽の出る新しい日が続くであろう。このことは、支那人を尊敬する人々が激しく希望し、且つ確乎として信ずるところのものである。我々の多くは我々が他の者にとっては、真暗の様に見える天の一角に新たなる暁のはじめの徴光を見つけることが出来ることを、すでに確心している。我々が早速次章から知ることは、唯夕方の薄明であって、暁の黎明ではない。それ故に私の記述は、1898年に康有為に依って提出された改革案の包括的プログラムを成就するための、光緒皇帝の深遠で望み難い計画にはじまり、1931年の末つ方、満州朝廷の最後の君主が、その祖先発祥の地に帰り、数年の間、世界政局の問題の中心となった満州地方の急変を以って終る三十四年間に限られねばならぬ。 文字の色を変えて同一部分岩波訳 私がこの著作を書こうとする主な目的は、私が黄昏の時代と呼んだ、廃朝後の満州朝廷を描くことにあった。それは一九一二年初のいわゆる共和国の創設の時期から、皇帝溥儀(ないしはその元号によって宣統帝とよばれる)が「クリスチャンゼネラル」(馮玉?)とその同盟者によって紫禁城を追われる一九二四年十一月までの十三年に該当する。 しかしながら、最近の中国の政治史に詳しくない読者にこの物語をよりよく理解していただくために、私はこの黄昏に先立つ陽光の日々についても語ることが必要であろうと考えた。 ?その太陽の光はすでに雷雲に覆われているのではあるが?また、黄昏に続く嵐をはらんだ夜についても言及するつもりである。 トワイライトという言葉には、黄昏の光だけではなく暁の光という意味もふくまれている。この物語の中で述べられている黄昏のほの暗い光は、夜の闇にのみこまれてしまったが、それは時の経過とともに再び、太陽の光に輝く新たな日を迎えることになろう。 それこそは中国人を敬愛し、尊敬するすべての人々(ひとたび中国人を知るならば、どうして敬愛し、尊敬せずにいられよう?)の熱烈な希望であり、固く信ずるところなのである。 われわれの多くはすでに、他の人々がまだ暗黒しか認めていない天のまさにその一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。しかし、以下の各章でわれわれが関わろうとしているのは、黄昏の兆候であって、暁の曙光ではない。 すなわち私の著述は、不運な皇帝・徳宗(光緒帝)がおこなった高邁ではあるが実現の望みの薄い改革の試みが失敗におわった一八九八年にはじまり、中国における満州王朝の最後の皇帝が、父祖の地である満州に帰還する一九三一年の末、および国際政治の台風の目となったその翌年の満州国の出現までの三十四年間の物語なのである。 以上、岩波文庫青?448?1「紫禁城の黄昏」より 該当部分抜書き(茶色文字部分責任:web engineer) そして、この後岩波文庫版「紫禁城の黄昏」では 訳者によって「主観的な色彩の強い前史部分」として 第一章 一八九八年の変法運動 第二章 変法運動の挫折 第三章 反動と義和団運動 第四章 光緒帝の晩年 第五章 西太后 第六章 一九一一年の革命 第七章 大清皇帝の退位条件 第八章 大清と洪憲朝 第九章 張勲と王政復古(復辞) 第十章 松樹老人(張勲)の自伝 までが、ごっそりと削られています。 そして、 第十六章 王政復古派の希望と夢も。 左の岩波文庫版「紫禁城の黄昏」のレビュー欄に訳者のあとがきよりその理由を述べている部分を一部抜粋しています。 (この部分文責:web engineer) 2005.02.13 Sunday
訳者の言葉
訳者の言葉:荒木武行
風の烈しい昭和9年2月27日、自分は新京に下車した。刺すような寒気を感じ乍らホテルへ着くまでの自動車の中から、市街をのぞいた。建国大典を控えた褐色の街は何となく生々としていた。 翌28日はヤマトホテルで満州国協和会全国連合協議会を傍聴した。軍楽隊の吹奏する満州国々歌までが何となく新らしい生命に溢れているような気がした。連合会は各地代表を網羅し、何れも心から建国を希望し、祝福した。その趣意書には 満州国の建設さるゝや、建国精神の普及と民族協和の実現とを其の使命とせる我満州国協和会は、上に執政を名誉総裁に戴き、国家公認の唯一思想建国団体として、其の綱領の実践に邁進し、国家施政の暢達に不断の努力を傾倒し、今や三十万余の国民中堅の会員を擁し建国第三年を迎えんとするに至れり。 と、云って居る。翌日は御大典である。自分も亦、この盛儀を遥拝するの光栄に浴した。 数日の後、登極の式場跡たる天壇のほとりを拝観した。涯知れぬ広野である。空と平原と、遥か左手には落葉樹の林立した一群を見るだけで、あとは目を遮る何ものもないほどである。 新興アジヤの聖地! そう云った感激が胸を衝いた。自分は、烈風の下で、暫く四囲の風影を見た。そしていろいろの感激を新にした。 滞京中に白井秘書官の斡旋で鄭国務総理にお目にかゝることが出来た。総理は血色のいゝ、若い者のような元気さで、握手など青年のように力強いものがあった。そして談論風発と云った趣きがあった。自分は率直に満州国の将来に就て語った。総理は明快に答えた。 新京から奉天へ。奉天から一路東京へ。自分の胸は満州国の建国印象で燃えていた。如何に之を表現すべきか、表現したい心持が一杯になっていた。たまたまジョンストン博士の新著を手にして『先づこれだ』と、思った。博士に翻訳刊行の許可依頼状を出すと共に大急ぎで全訳にとりかゝった。何分、多忙な生活なので思うにまかせぬものがあり、訳文等にも不備の点はすくなくないが、この書が何を語ろうか、とする大意丈けは判然としよう、何れ改訂版を作る予定であるが兎に角、この感激を日満両国民大衆に捧げる。而して、本書の刊行に当って協力完成を急いだ親友長島八郎、安田清臣両兄の芳情に対しては特に明記して永遠の記念であり感謝としたい。 昭和九年七月上旬 日満経済協会編集室にて 荒木 武行 |